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日本は侵略国家であったのか

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日本は侵略国家であったのか

田母神俊雄


 アメリカ合衆国軍隊は日米安全保障条約により日本国内に駐留している。これをアメリカによる日本侵略とは言わない。二国間で合意された条約に基づいているからである。我が国は戦前中国大陸や朝鮮半島を侵略したと言われるが、実は日本軍のこれらの国に対する駐留も条約に基づいたものであることは意外に知られていない。日本は19世紀の後半以降、朝鮮半島や中国大陸に軍を進めることになるが相手国の了承を得ないで一方的に軍を進めたことはない。

  • (引用者注)満州事変のように軍を先に動かして既成事実を作った上で、相手国の『了承』を得る。これを侵略という。

  • 「検証 田母神前空幕長論文」朝日新聞朝刊2008年11月11日=以下「検証」と略す、では田母神さんに論文を「誤引用」された秦郁彦氏と保阪正康氏が厳しく指摘している。)
     論文の冒頭近くにある記述だが、これは思いちがいだろう。「満州事変はどうだったのか」と反問するだけで崩れてしまう論だ。満州事変は、日本の関東軍が謀略で鉄道を爆破し一方的に始めた戦争だ。謀議者から実行部隊の兵士まで、すでに関係者の多くの証言がある。当時の軍首脳も政府も追認し、予算を支出している。日中戦争も大東亜戦争も相手国の了承なしに始めた戦争だ。
    保阪 史実を押さえれば、田母神論文のような解釈はできない。「国際法上合法的に中国大陸に権益を得て・・・・・・」とあるが、西欧列強もアジアでの支配を合法化した。だから正しい、と言うのは歴史の見方ではない。帝国主義の支配者は被支配者より何倍も狡猾だ。「多少の圧力を伴わない条約など存在したことがない」とも記述しているが、子どもの言い訳に等しい。

現在の中国政府から「日本の侵略」を執拗に追求されるが、我が国は日清戦争、日露戦争などによって国際法上合法的に中国大陸に権益を得て、これを守るために条約等に基づいて軍を配置したのである。これに対し、圧力をかけて条約を無理矢理締結させたのだから条約そのものが無効だという人もいるが、昔も今も多少の圧力を伴わない条約など存在したことがない。

  • (引用者注)軍を先に相手国内で動かすことを「多少の圧力」と田母神氏は言ってる。この言い方はナチスドイツの侵略と少しも変わらない。

 この日本軍に対し蒋介石国民党は頻繁にテロ行為を繰り返す。邦人に対する大規模な暴行、惨殺事件も繰り返し発生する。これは現在日本に存在する米軍の横田基地や横須賀基地などに自衛隊が攻撃を仕掛け、米国軍人及びその家族などを暴行、惨殺するようものであり、とても許容できるものではない。これに対し日本政府は辛抱強く和平を追求するが、その都度蒋介石に裏切られるのである。

  • (引用者注)当時日本政府は、中華民国政府と条約を結んで軍事駐留を行ったのではなく、華北では日本軍が設立した傀儡政府と条約や協定を結んだ。それらは皆、軍事行動が先行していた。

実は蒋介石はコミンテルンに動かされていた。1936 年の第2次国共合作によりコミンテルンの手先である毛沢東共産党のゲリラが国民党内に多数入り込んでいた。コミンテルンの目的は日本軍と国民党を戦わせ、両者を疲弊させ、最終的に毛沢東共産党に中国大陸を支配させることであった。

  • (引用者注)国共合作はコミンテルンの意のままに進んだのではなく中国の人民の支持の元に進められた。第2次国共合作は1937年日中両軍が激戦中の9月22日に、共産党が国民党に出した「国難に赴く宣言」(国民党政府への忠誠宣言)と、それを受けての蒋介石談話が放送されて、ようやく対立抗争の終結が宣言された。なお、中国共産党指導者毛沢東とコミンテルンから派遣されたオットー・ブラウンとの対立は厳しいものがあった。

我が国は国民党の度重なる挑発に遂に我慢しきれなくなって1937年8月15日、日本の近衛文麿内閣は「支那軍の暴戻(ぼうれい)を膺懲(ようちょう)し以って南京政府の反省を促す為、今や断乎たる措置をとる」と言う声明を発表した。我が国は蒋介石により日中戦争に引きずり込まれた被害者なのである。

  • (引用者注)わが国の軍部の中では、戦争拡大方針と不拡大方針とが対立していたが、現地派遣軍の独断専行で南京攻略戦が実行された。近衛文麿内閣は統帥権を振りかざす軍部に抗すすべなくそれを追認した。

  • ( 「検証」では
     国民党内にコミンテルンのスパイがいたから、蒋介石はコミンテルンに動かされていたなどと言うのは、「風が吹けばおけ屋がもうかる」式の強弁だ。張作霖爆殺事件も、コミンテルンの仕業という説が「極めて有力になってきている」などと田母神論文は書くが、歴史学の世界では問題にされていない説だ。
    張作霖爆殺事件が関東軍の仕業であることは、首謀者の河本大作はじめ関係者が犯行を認めた。このため田中義一内閣が倒れ、「昭和天皇独白録」でも、「事件の首謀者は河本大作大佐である」と断定されている。他にもコミンテルン謀略説の論文があちこちに出てくるが、いずれも根拠となる確かな裏付け資料があいまいで、実証性に乏しい俗論に過ぎない。 

    保阪 当時の国民党の指導者に取材したことがある。共産党側の人間が国民党に入っていたのは事実だが、コミンテルンが国民党を動かしていたというのは間違いだ。日本の軍部がソ連や共産主義への危機感をあおっていた見方だ。「陰謀史観」で歴史を見るようになると、何でもそれに結びつける。「盧溝橋事件でだれが撃ったか」は本質的な問題ではない。中国で日本軍が軍事演習を行っていた背景を見なければならない。

 1928 年の張作霖列車爆破事件も関東軍の仕業であると長い間言われてきたが、近年ではソ連情報機関の資料が発掘され、少なくとも日本軍がやったとは断定できなくなった。「マオ( 誰も知らなかった毛沢東)( ユン・チアン、講談社)」、「黄文雄の大東亜戦争肯定論( 黄文雄、ワック出版)」及び「日本よ、「歴史力」を磨け( 櫻井よしこ編、文藝春秋)」などによると、最近ではコミンテルンの仕業という説が極めて有力になってきている。

  • (引用者注)張作霖列車爆破事件は河本大作大佐らの犯行であるということが、学問的にも確定している。

日中戦争の開始直前の1937年7月7日の廬溝橋事件についても、これまで日本の中国侵略の証みたいに言われてきた。しかし今では、東京裁判の最中に中国共産党の劉少奇が西側の記者との記者会見で「廬溝橋の仕掛け人は中国共産党で、現地指揮官はこの俺だった」と証言していたことがわかっている「大東亜解放戦争( 岩間弘、岩間書店)」。

  • (引用者注)第2次国共合作前のことで、共産党は国民党軍の襲撃で根拠地延安を終われていて、劉少奇の記者会見などありえない。

もし日本が侵略国家であったというのならば、当時の列強といわれる国で侵略国家でなかった国はどこかと問いたい。よその国がやったから日本もやっていいということにはならないが、日本だけが侵略国家だといわれる筋合いもない。

  • (引用者注)ヨーロッパの大国が当時、侵略国家であったことは誰もが認めるところである。日本はそれに追随しようとした

 我が国は満州も朝鮮半島も台湾も日本本土と同じように開発しようとした。当時列強といわれる国の中で植民地の内地化を図ろうとした国は日本のみである。我が国は他国との比較で言えば極めて穏健な植民地統治をしたのである。満州帝國は、成立当初の1932年1月には3 千万人の人口であったが、毎年100万人以上も人口が増え続け、1945年の終戦時には5 千万人に増加していたのである。満州の人口は何故爆発的に増えたのか。それは満州が豊かで治安が良かったからである。侵略といわれるような行為が行われるところに人が集まるわけがない。

農業以外にほとんど産業がなかった満州の荒野は、わずか15年の間に日本政府によって活力ある工業国家に生まれ変わった。朝鮮半島も日本統治下の35年間で1千3百万人の人口が2千5 百万人と約2倍に増えている「朝鮮総督府統計年鑑」。日本統治下の朝鮮も豊かで治安が良かった証拠である。戦後の日本においては、満州や朝鮮半島の平和な暮らしが、日本軍によって破壊されたかのように言われている。しかし実際には日本政府と日本軍の努力によって、現地の人々はそれまでの圧政から解放され、また生活水準も格段に向上したのである。

  • (引用者注)帝国主義国家が植民地の産業を開発しようとすることは、どの帝国主義列強も当然の如くしたことである。産業開発をしたからといって主権を認めないことが許されるわけではない。民族主権、独立解放に敵対することになる。植民地全体の経済の向上が即、住民の生活向上に結びつくわけではない。現に植民地化の中で田畑を失った朝鮮農民の衰退は現実のこととして知られている。

 我が国は満州や朝鮮半島や台湾に学校を多く造り現地人の教育に力を入れた。道路、発電所、水道など生活のインフラも数多く残している。また1924年には朝鮮に京城帝国大学、1928 年には台湾に台北帝国大学を設立した。日本政府は明治維新以降9つの帝国大学を設立したが、京城帝国大学は6番目、台北帝国大学は7番目に造られた。その後8番目が1931 年の大阪帝国大学、9番目が1939 年の名古屋帝国大学という順である。なんと日本政府は大阪や名古屋よりも先に朝鮮や台湾に帝国大学を造っているのだ。

  • (引用者注)帝国大学の設立が現地人のための教育の為かどうかは、その教育内容、教員学生の構成などを見ないと即断できない。だいいち、植民地に立派な大学を設立するのは大英帝国の植民地支配の模倣でもある。

また日本政府は朝鮮人も中国人も陸軍士官学校への入校を認めた。戦後マニラの軍事裁判で死刑になった朝鮮出身の洪思翊(ホンサイク)という陸軍中将がいる。この人は陸軍士官学校2 6 期生で、硫黄島で勇名をはせた栗林忠道中将と同期生である。朝鮮名のままで帝国陸軍の中将に栄進した人である。またその1 期後輩には金(キン)錫源(ソグォン)大佐がいる。日中戦争の時、中国で大隊長であった。日本兵約1 千名を率いて何百年も虐められ続けた元宗主国の中国軍を蹴散らした。その軍功著しいことにより天皇陛下の金賜勲章を頂いている。もちろん創氏改名などしていない。中国では蒋介石も日本の陸軍士官学校を卒業し新潟の高田の連隊で隊付き教育を受けている。1 期後輩で蒋介石の参謀で何応欽(カオウキン)もいる。

  • (引用者注)帝国主義国がその植民地の指導者層を、自国の利害のためや自国の統治のために教育しようとすることは当たり前のことであって、それをもって対等な国家関係の証だ、というのは詐欺師の言葉に等しい。

 李王朝の最後の殿下である李垠(イウン)殿下も陸軍士官学校の2 9 期の卒業生である。李垠(イウン)殿下は日本に対する人質のような形で1 0 歳の時に日本に来られることになった。しかし日本政府は殿下を王族として丁重に遇し、殿下は学習院で学んだあと陸軍士官学校をご卒業になった。陸軍では陸軍中将に栄進されご活躍された。この李垠(イウン)殿下のお妃となられたのが日本の梨本宮方子(まさこ)妃殿下である。この方は昭和天皇のお妃候補であった高貴なお方である。もし日本政府が李王朝を潰すつもりならこのような高貴な方を李垠(イウン)殿下のもとに嫁がせることはなかったであろう。因みに宮内省はお二人のために1930 年に新居を建設した。現在の赤坂プリンスホテル別館である。また清朝最後の皇帝また満州帝国皇帝であった溥儀(フギ)殿下の弟君である溥(フ)傑(ケツ)殿下のもとに嫁がれたのは、日本の華族嵯峨家の嵯峨浩妃殿下である。

  • (引用者注)植民地の指導者層のなかでも、『王族』は植民地支配に利用するために、最も注意注意深く取り扱われた。『王』が日本の天皇の『臣』となることが、植民地支配の近道であった。

 これを当時の列強といわれる国々との比較で考えてみると日本の満州や朝鮮や台湾に対する思い入れは、列強の植民地統治とは全く違っていることに気がつくであろう。イギリスがインドを占領したがインド人のために教育を与えることはなかった。インド人をイギリスの士官学校に入れることもなかった。もちろんイギリスの王室からインドに嫁がせることなど考えられない。これはオランダ、フランス、アメリカなどの国々でも同じことである。一方日本は第2 次大戦前から5族協和を唱え、大和、朝鮮、漢、満州、蒙古の各民族が入り交じって仲良く暮らすことを夢に描いていた。人種差別が当然と考えられていた当時にあって画期的なことである。第1 次大戦後のパリ講和会議において、日本が人種差別撤廃を条約に書き込むことを主張した際、イギリスやアメリカから一笑に付されたのである。現在の世界を見れば当時日本が主張していたとおりの世界になっている。

  • (引用者注)イギリスがインド人に教育を与えることが無かった、なんていうことはない。ガンジー、ネール、は一体どこで高等教育を受けたというのか。東京裁判でのパール判事はどうか?

 時間は遡るが、清国は1900 年の義和団事件の事後処理を迫られ1901 年に我が国を含む11 カ国との間で義和団最終議定書を締結した。その結果として我が国は清国に駐兵権を獲得し当初2600 名の兵を置いた「廬溝橋事件の研究(秦郁彦、東京大学出版会) 」。また1915 年には袁世凱政府との4 ヶ月にわたる交渉の末、中国の言い分も入れて、いわゆる対華21 箇条の要求について合意した。これを日本の中国侵略の始まりとか言う人がいるが、この要求が、列強の植民地支配が一般的な当時の国際常識に照らして、それほどおかしなものとは思わない。中国も一度は完全に承諾し批准した。しかし4 年後の1919 年、パリ講和会議に列席を許された中国が、アメリカの後押しで対華21箇条の要求に対する不満を述べることになる。それでもイギリスやフランスなどは日本の言い分を支持してくれたのである「日本史から見た日本人・昭和編(渡部昇一、祥伝社)」。また我が国は蒋介石国民党との間でも合意を得ずして軍を進めたことはない。常に中国側の承認の下に軍を進めている。1901 年から置かれることになった北京の日本軍は、36 年後の廬溝橋事件の時でさえ5600 名にしかなっていない「廬溝橋事件の研究(秦郁彦、東京大学出版会) 」。このとき北京周辺には数十万の国民党軍が展開しており、形の上でも侵略にはほど遠い。幣原喜重郎外務大臣に象徴される対中融和外交こそが我が国の基本方針であり、それは今も昔も変わらない。

  • (引用者注)盧溝橋事件は、偶発事件として現地処理で解決することは可能だった。にもかかわらず日本政府は、三個師団増派を決め戦争に突入した。

 さて日本が中国大陸や朝鮮半島を侵略したために、遂に日米戦争に突入し3 百万人もの犠牲者を出して敗戦を迎えることになった、日本は取り返しの付かない過ちを犯したという人がいる。しかしこれも今では、日本を戦争に引きずり込むために、アメリカによって慎重に仕掛けられた罠であったことが判明している。実はアメリカもコミンテルンに動かされていた。ヴェノナファイルというアメリカの公式文書がある。米国国家安全保障局(NSA)のホームページに載っている。膨大な文書であるが、月刊正論平成18年5月号に青山学院大学の福井助教授(当時)が内容をかいつまんで紹介してくれている。ヴェノナファイルとは、コミンテルンとアメリカにいたエージェントとの交信記録をまとめたものである。アメリカは1940 年から1948 年までの8年間これをモニターしていた。当時ソ連は1 回限りの暗号書を使用していたためアメリカはこれを解読できなかった。そこでアメリカは、日米戦争の最中である1943 年から解読作業を開始した。そしてなんと37 年もかかって、レーガン政権が出来る直前の1980 年に至って解読作業を終えたというから驚きである。しかし当時は冷戦の真っ只中であったためにアメリカはこれを機密文書とした。その後冷戦が終了し1995 年に機密が解除され一般に公開されることになった。これによれば1933 年に生まれたアメリカのフランクリン・ルーズベルト政権の中には3 百人のコミンテルンのスパイがいたという。その中で昇りつめたのは財務省ナンバー2 の財務次官ハリー・ホワイトであった。ハリー・ホワイトは日本に対する最後通牒ハル・ノートを書いた張本人であると言われている。

  • (引用者注)ハリー・ホワイトは、後に「財務次官補」となる。ハルノートの当時は財務省の一部長。大統領の意思決定を左右するような地位にはない。

彼はルーズベルト大統領の親友であるモーゲンソー財務長官を通じてルーズベルト大統領を動かし、我が国を日米戦争に追い込んでいく。当時ルーズベルトは共産主義の恐ろしさを認識していなかった。彼はハリー・ホワイトらを通じてコミンテルンの工作を受け、戦闘機100 機からなるフライイングタイガースを派遣するなど、日本と戦う蒋介石を、陰で強力に支援していた。真珠湾攻撃に先立つ1 ヶ月半も前から中国大陸においてアメリカは日本に対し、隠密に航空攻撃を開始していたのである。

 ルーズベルトは戦争をしないという公約で大統領になったため、日米戦争を開始するにはどうしても見かけ上日本に第1 撃を引かせる必要があった。日本はルーズベルトの仕掛けた罠にはまり真珠湾攻撃を決行することになる。さて日米戦争は避けることが出来たのだろうか。日本がアメリカの要求するハル・ノートを受け入れれば一時的にせよ日米戦争を避けることは出来たかもしれない。しかし一時的に戦争を避けることが出来たとしても、当時の弱肉強食の国際情勢を考えれば、アメリカから第2, 第3 の要求が出てきたであろうことは容易に想像がつく。結果として現在に生きる私たちは白人国家の植民地である日本で生活していた可能性が大である。文明の利器である自動車や洗濯機やパソコンなどは放っておけばいつかは誰かが造る。しかし人類の歴史の中で支配、被支配の関係は戦争によってのみ解決されてきた。強者が自ら譲歩することなどあり得ない。戦わない者は支配されることに甘んじなければならない。

  • ( 「検証」では
     これも、バージョンを変えて繰り返し出てくる「ルーズベルト陰謀説」の一種だ。ルーズベルト大統領は日本側の第一撃を誘うため真珠湾攻撃を事前に察知していたのに現地軍に知らせなかった、という筋書きのものが多い。こうした話はミステリー小説のたぐいで、学問的には全く相手にされていない。

    保阪 米国が日本に先手を打たせたかったというのは事実だろう。だが、日本外国の失策に目をつぶって共産主義者が悪いというのはおかしい。41年4月に日米交渉が始まり、7月に日本は南部仏印に進駐。それに対し、米国は日本の在米資産凍結、石油禁輸措置を決める。政府や大本営が米国を見誤った「甘さ」の方が問題だ。日本が正しくてはめられた、などという論は無責任だ。

  • (引用者注)田母神さんは、<戦わない者は支配されることに甘んじなければならない。>というが、プロの軍人として敗戦という結果はどう総括するのか? <被支配を招かないような選択>をするのがプロの政治家の任務であり、無鉄砲な戦争を起こさないように堅実な作戦、戦略をたてるのがプロの軍人の任務ではないのか?

 さて大東亜戦争の後、多くのアジア、アフリカ諸国が白人国家の支配から解放されることになった。人種平等の世界が到来し国家間の問題も話し合いによって解決されるようになった。それは日露戦争、そして大東亜戦争を戦った日本の力によるものである。もし日本があの時大東亜戦争を戦わなければ、現在のような人種平等の世界が来るのがあと百年、2 百年遅れていたかもしれない。そういう意味で私たちは日本の国のために戦った先人、そして国のために尊い命を捧げた英霊に対し感謝しなければならない。そのお陰で今日私たちは平和で豊かな生活を営むことが出来るのだ。

  • (引用者注)中国では、日本帝国主義からの解放戦争が行われた、中国は欧米帝国主義国までも味方につけてそれを成就させた。それは第2次世界大戦が、帝国主義国家間の戦争という側面から、帝国主義支配に対する人民の解放戦争へと戦争の意義が転化したからである。

 一方で大東亜戦争を「あの愚劣な戦争」などという人がいる。戦争などしなくても今日の平和で豊かな社会が実現できたと思っているのであろう。当時の我が国の指導者はみんな馬鹿だったと言わんばかりである。やらなくてもいい戦争をやって多くの日本国民の命を奪った。亡くなった人はみんな犬死にだったと言っているようなものである。

  • (引用者注)では田母神さんは、「戦争をしたから平和で豊かな社会が実現できた」とでも思っているのですか。<当時の我が国の指導者はみんな馬鹿だったと言わんばかりである。やらなくてもいい戦争をやって多くの日本国民の命を奪った。亡くなった人はみんな犬死にだったと言っているようなものである。>・・・事実そのとおりだから、私もそういいますよ。田母神さんのような<馬鹿>が指導者として大きな顔をし始めることは、要注意です。国民を犬死させた、そのことに対する反省がない。いや、反省どころか分析すらないご様子です。確かに当時の日本の政治指導者や軍部の指導者は、一人一人をとってみれば、教養のレベルが他国のそういう人たちに比べて低かったわけではありますまい。そこまで卑屈になることは無いですよ。だからこそ考えなくてはならないのは、「なのに何故あのような無様で悲惨な結果を招いてしまったのか?」ということです。 問題はそこにあります。厳しくその問題を探求しようとしない田母神さんのような人が「国軍復活」を叫ぶようでは、わが国の亡国が迫っているようにしか思えないのです。

  • (引用者注)これから後の田母神さんの言辞は、なんの事実にも基づかない妄想としか思えません。民主主義を<マインドコントロール>と断じて日本国民にそれを捨てよ、と自衛隊の制服を着たまま叫んでいます。言語道断としかいいようがありません。

しかし人類の歴史を振り返ればことはそう簡単ではないことが解る。現在においてさえ一度決定された国際関係を覆すことは極めて困難である。日米安保条約に基づきアメリカは日本の首都圏にも立派な基地を保有している。これを日本が返してくれと言ってもそう簡単には返ってこない。ロシアとの関係でも北方四島は6 0 年以上不法に占拠されたままである。竹島も韓国の実行支配が続いている。

 東京裁判はあの戦争の責任を全て日本に押し付けようとしたものである。そしてそのマインドコントロールは戦後63 年を経てもなお日本人を惑わせている。日本の軍は強くなると必ず暴走し他国を侵略する、だから自衛隊は出来るだけ動きにくいようにしておこうというものである。自衛隊は領域の警備も出来ない、集団的自衛権も行使出来ない、武器の使用も極めて制約が多い、また攻撃的兵器の保有も禁止されている。諸外国の軍と比べれば自衛隊は雁字搦めで身動きできないようになっている。このマインドコントロールから解放されない限り我が国を自らの力で守る体制がいつになっても完成しない。アメリカに守ってもらうしかない。アメリカに守ってもらえば日本のアメリカ化が加速する。日本の経済も、金融も、商慣行も、雇用も、司法もアメリカのシステムに近づいていく。改革のオンパレードで我が国の伝統文化が壊されていく。日本ではいま文化大革命が進行中なのではないか。日本国民は2 0 年前と今とではどちらが心安らかに暮らしているのだろうか。日本は良い国に向かっているのだろうか。私は日米同盟を否定しているわけではない。アジア地域の安定のためには良好な日米関係が必須である。但し日米関係は必要なときに助け合う良好な親子関係のようなものであることが望ましい。子供がいつまでも親に頼りきっているような関係は改善の必要があると思っている。

 自分の国を自分で守る体制を整えることは、我が国に対する侵略を未然に抑止するとともに外交交渉の後ろ盾になる。諸外国では、ごく普通に理解されているこのことが我が国においては国民に理解が行き届かない。今なお大東亜戦争で我が国の侵略がアジア諸国に耐えがたい苦しみを与えたと思っている人が多い。しかし私たちは多くのアジア諸国が大東亜戦争を肯定的に評価していることを認識しておく必要がある。タイで、ビルマで、インドで、シンガポーで、インドネシアで、大東亜戦争を戦った日本の評価は高いのだ。

  • ( 「検証」では
     果たしてそうだろうか。田母神論文はこれに続けて「タイで、ビルマで、インドで、シンガポールで、インドネシアで、大東亜戦争を戦った日本の評価は高い」と国名を列挙するが、日本軍が華僑虐殺をしたシンガポールは、最近まで反日的な空気が強かったと承知している。独立国だったタイも日本軍の駐屯で被害を受けているので、感謝しているとは思えない。何より、列挙には、一番損害の大きかった中国が入っていない。満州事変に触れなかったのと同様、重要な史実からは逃げ、都合の良い話だけをつないだように見える。

    保阪 インドネシア独立義勇軍に加わった何人もの元日本兵に取材した。独立のため戦死した日本兵も多い。本当に東南アジアの解放のために戦ったのはそういう人だが、国は「逃亡兵」とした。そういう事実も見もしないで、都合のいいことを語っている。

そして日本軍に直接接していた人たちの多くは日本軍に高い評価を与え、日本軍を直接見ていない人たちが日本軍の残虐行為を吹聴している場合が多いことも知っておかなければならない。日本軍の軍紀が他国に比較して如何に厳正であったか多くの外国人の証言もある。我が国が侵略国家だったなどというのは正に濡れ衣である。

  • ( 「検証」では
     田母神論文の前の方で、「よその国がやったから日本もやっていいということにはならないが、日本だけが侵略国家だといわれる筋合いもない」と書いている。そこはその通りだと思う。しかし、日本も他の国も侵略国家だったとすると、論理が合わなくなるのではないか。

    保阪 「侵略国家」とは、どういう意味か。戦後、一つ一つの史実を検証したうえで「これは侵略だ」と認定してきた。中国を侵略したことは政府でさえ認めた。否定するならば論拠を示すべきだ。論文に書かれている事実はいずれも核心ではない。一部を取り出して恣意的につなぎ合わせるだけで一面的だ。戦後、史実をを実証的に積み重ね、戦争を検証してきた。論文は「60年」という時間を侮蔑している。

 日本というのは古い歴史と優れた伝統を持つ素晴らしい国なのだ。私たちは日本人として我が国の歴史について誇りを持たなければならない。人は特別な思想を注入されない限りは自分の生まれた故郷や自分の生まれた国を自然に愛するものである。日本の場合は歴史的事実を丹念に見ていくだけでこの国が実施してきたことが素晴らしいことであることがわかる。嘘やねつ造は全く必要がない。個別事象に目を向ければ悪行と言われるものもあるだろう。それは現在の先進国の中でも暴行や殺人が起こるのと同じことである。私たちは輝かしい日本の歴史を取り戻さなければならない。歴史を抹殺された国家は衰退の一途を辿るのみである。

  • ( 「検証」では
    全体を通じて
     論文というより感想文に近いが、全体としては稚拙と評せざるをえない。結論はさておき、その根拠となる事実関係が誤認だらけで、論理性もない。

    保阪 かつて兵士たちが生還して色々なことを知ったとき、「日本もむちゃをやった」と素朴な感慨を持った。われわれはそこからスタートしている。昔の日本に批判的なことを「自虐史観」というが、「自省史観」が必要なのだ。ナショナリズムを鼓吹した時、それは偏狭な運動になる。歴史を誇るのであれば、事実に謙虚でなければ。


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