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宮平秀幸陳述書(2)

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宮平秀幸陳述書(2)



陳 述 書
平成20年9月1日
大阪高等裁判所第4 民事部御中
沖縄県座間味村字座間味 xxx
宮平 秀幸

●生い立ちと略歴


私は昭和5年1月10日、父・宮平秀松と母・貞子の間の三男として、沖縄県座間味島にて出生しました。座間味島集団自決の証言者として知られる宮城初枝は、私の腹違いの姉にあたりますが、初枝はまもなく亡くなった実母の実家で育てられましたので、同じ家の家族として育ったわけではありません。

昭和19年3月、座間味国民学校を卒業し、4月1日、海軍少年航空兵(海軍特攻)に志願し合格しました。この時、座間味村からは私を含めて3人が合格しました。しかし、出撃する船が不足し、座間味待機となりました。

同年9月10日、陸軍海上挺進隊第一戦隊(隊長・梅澤裕少佐)が島に駐留を開始し、基地隊とあわせて約1000人の日本兵が島民と同居することになりました。基地隊の隊員は民家に分宿し、私の家には、整備中隊日直室の落合武雄軍曹、木崎治男伍長(のち軍曹)、藤江務保(かねやす)兵長の古参兵3名が寄宿しました。昭和20年1月1日、宮里盛秀助役を隊長とする郷土防衛隊が編成され、当時15歳の私もその一員ということになりました。1月中旬、整備中隊の内藤隊長から軍の伝令と雑役を担当するように依頼され、3月26日の米軍上陸時に負傷して捕虜となるまで、その任務についていました。

戦後は各種の仕事を転々としましたが、昭和35年、民間経営の運搬船の機関長となり、昭和42年からは運搬船が座間味村に移管されたことに伴い、役場職員として機関長を勤め上げ、平成2年、60歳で定年退職しました。他方、昭和47年の本土復帰の年にペンション「高月」を開業し、今日に至っております。

以下、昭和20年の3月23日から26日までの4日間に限って、私が体験したことを、包み隠さず述べることとします。

●3月23日、空襲開始


3月23日の早朝7時半ごろ、国民学校教頭の山城安次郎先生が私の家にやって来られました。この日、学校では、生徒全員を連れてマチャンとよばれるところにある開墾地に行き、農作業をすることになっていました。その生徒たちの引率に行ってほしいとの依頼でした。「あなたのことは、兵事係兼防衛隊長(宮里盛秀助役)に話してあるから、大丈夫だ」と山城先生はおっしゃいました。私は私の家に寄宿している整備中隊日直室勤務の落合武雄軍曹に、教頭と一緒に生徒の引率役をしてよいか、許可を得ようとしましたが、落合軍曹は、「今日は整備中隊の事務所から器具を運搬しなければならない仕事がある」と言われましたので、山城先生にマチャン行きを断わりました。

午前9時半頃、米軍の空襲が始まりました。敵機グラマンが来襲し、座間味の部落はあっという間に火に包まれました。家屋は爆弾で吹き飛ばされ、恐ろしい光景が現出しました。私の家族は、部落の西のはずれにあるシンジュという所につくってあった防空壕に避難しました。

午前11時頃、整備中隊所属の兵士3名とともに、事務所にあった重い木箱を1人1個ずつ担いで運びだしました。空襲の合間を見計らって、整備中隊の壕へ向かいました。途中、学校は盛んに燃え上がり、建物は爆弾で吹き飛ばされていたので、道路を急いでもなかなか前へ進むことができません。加えて荷物は重く、3時間もかけて、やっとの思いで整備中隊の壕へとたどり着きました。

大空襲の最中、家族を家に残してきたことが心配でなりませんでした。座間味部落に戻ってみましたが、家はすでに爆風で飛ばされ、残っているのは柱だけでした。空襲の合間をぬって家族の壕に着いたら、みんな無事だったので一安心でした。午後5時頃になっていました。

家族の出したサツマイモで簡単な食事を済ませ、再び整備中隊の壕に戻ろうとしましたが、母・貞子と姉の千代が、「明日の朝早く整備中隊に戻ればよいのでは」と言い、その夜は家族の壕に泊まっていくことを求めました。当時壕にいた私の家族は、父の両親である祖父母と、母、21歳の姉の千代、三男の私、6歳の妹・昌子、4歳の弟・秀頼(戦後、秀保と改名)の7人でした。父・秀松は漁業の出稼ぎでセレベス島にいて不在、19歳の長兄・秀信は防衛隊員となって以来軍と行動をともにしており、17歳の次兄・秀昭は海軍を志願して佐世保におりました。私は学校を出たばかりの15歳でしたが、家族としては男手として頼りにしていた面があったと思います。私はその夜は自家の壕で寝ることにしました。夜は、姉とともに、水を汲んで来たり、イモを煮たりして忙しく働きました。

●3月24日、宮里直の話


3月24日、敵は夜が明けきらない薄暗いうちから空襲を開始し、私は整備中隊の壕に戻るのが怖くなりました。自分の家の壕から外に出たものの、恐ろしさのあまり立ち止まってしまいました。その時、部落の中を走って行く兵隊たちが目に入りましたので、勇気をふるって兵隊たちのあとをついて走りました。整備中隊の壕に着いたのは、午前11時頃でした。

壕に着いて、「帰りました」と報告しました。乾パンを一袋もらい、食事を済ませて一休みしました。午後4時頃、伝令に出発しました。茶色の封筒に「第二中隊安部少尉殿」と宛名が書いてありました。封がしてあるから内容はわかりません。第二中隊の壕に行き、安部少尉に伝令の封筒を渡しました。

それから、私は座間味部落にある自宅に行ってみました。前年3月に卒業した国民学校高等科の卒業証書を取っておきたいと思ったのです。しかし、家は爆弾で吹き飛び、残っているのは柱だけで、いくら探しても卒業証書は見つかりませんでした。

帰り際、夕刻6時頃のことです。郵便局の通りで、同級生の宮里直(なおし)に出会いました。直は助役・宮里盛秀の弟です。直も焼かれた自分の家を見に来たとのことでした。お互いに無事を喜び合い、互いの心境を語りました。

「もしも敵兵が上陸して来たら、敵兵を殺してから死ぬ」と私が言いますと、直は、「一家で自決する」と言います。直の家では早くから一家で自決することを話し合っていたようです。私には直の考えは臆病もののすることに思えました。この時、直は、「秀幸、俺に手を貸してくれないか」と切り出しました。何事かと訊いてみると、直は、「軍の弾薬を盗みに行く」というのです。私は驚いて、「そんなことをしたら、大変なことになる」と言って、直の考えをたしなめました。

私は急いで自家の壕に立ち寄り、家族と話し合いをしました。私は「情報が悪くなっているので(当時、戦況悪化をよくこういう言い方で表現しました)、もし敵が上陸するとの報告があったら、いち早く山に逃げなさい」と強く言いました。

午後8時頃、整備中隊の壕に帰るために自家の壕を出ました。薄暗い月明かりが頼りです。艦砲の音が数を増してきました。山頂から見ると、渡嘉敷島、阿嘉島、慶留間島の山は真っ赤な炎を上げて燃えさかっていました。途中、二本松の近くの道で、田中上等兵と笹口一等兵に出会いました。二人はこれから、座間味部落に行くところでした。「ご苦労さん」と声をかけられました。

●3月25日、本部壕にて

前夜、整備中隊の壕で寝ましたが、ここ数日来動き回った疲れが重なって、起き上がる元気が出ません。夕刻まで整備中隊の壕で仮眠を取っていました。

夕刻7時頃、兵隊はみな戦闘準備を開始しました。私は寝ているところを起こされました。金子上等兵は、「明日、いよいよ敵が上陸してくる可能性があるので、家族のもとへ帰った方がいいのではないか」と言います。私は迷いました。そこへ木崎伍長(当時。のち軍曹)が来て、「家族のもとへ帰って行きなさい」と言いました。私は「ハイ」と答えて、整備中隊の壕を出ました。

独りで高月山の道までやっと登ってきましたら、折しもものすごい艦砲射撃が始まり、前に進むことができません。そこで、高月山の稜線を南に進み、第一戦隊の本部壕のわきに転がり込むようにしてたどり着きました。それが、午後9時頃のことであったと思います。

本部壕は外から分からないような偽装がほどこされていました。入口は、琉球マツの枝で覆われています。見ると、そこに乾パンが一袋、引っかかっていました。私は急に空腹を覚えて、その乾パンを食べ始めました。

すると、壕の入口の方から、人の声が聞こえて来ます。何事かとマツの枝をそっと広げてみると、宮里盛秀助役が梅澤隊長に盛んに何かをお願いしているところでした。私は、そっと近づいて聞き耳を立てました。壕の入口には水に濡らした毛布が何枚も掛けられています。あとで知ったことですが、艦砲弾や火炎放射器で壕が火事にならないよう防火のために掛けていたものでした。

私はその毛布の陰に身を潜めました。私と梅澤隊長との距離はわずか2メートル程度しか離れていません。しかし、毛布がちょうど死角となって、私の姿は、梅澤隊長からも盛秀助役からも見えません。こうして私は、その場の話の一部始終を聞いてしまいました。

本部壕の前には、助役・宮里盛秀の他、村長・野村正次郎、収入役・宮平正次郎の村役場の三役と、国民学校校長・玉城盛助、村役場吏員の宮平恵達、それに私の姉の宮平初枝(のち結婚後宮城姓)がいました。村の幹部に応対したのは梅澤隊長一人でしたが、壕の中には、神山副官、大迫副官、筒井中尉が座っており、奥には整備中隊の内藤隊長の姿も見えました。

主に発言していたのは助役の宮里盛秀でした。盛秀は、「もう、明日はいよいよアメリカ軍が上陸すると思いますので、私たち住民はこのまま生き残ってしまうと鬼畜米英に獣のように扱われて、女も男も殺される。同じ死ぬぐらいなら、日本軍の手によって死んだ方がいい。それで、忠魂碑前に村の年寄りと子供を集めてありますから、自決するための爆弾を下さい」と懇願しました。

すると梅澤隊長は、「何を言うか! 軍も明日敵がやってくるのに、補給もなく非常に困っている。戦うための武器弾薬もないのに、民間人に武器弾薬を渡すのはもっての他だ。あなた方を自決させるような弾薬などない。帰って、集まっている民間人を解散させろ」と強く断わりました。助役はなおも「弾薬やダイナマイトがダメならば毒薬を下さい。手榴弾を下さい。鉄砲があるから、小銃弾をわけて下さい」と食い下がりました。

そこで、ついに梅澤隊長は次のように命令しました。

「俺の言うことが聞けないのか! よく聞けよ。われわれは国土を守り、国民の生命財産を守るための軍隊であって、住民を自決させるためにここに来たのではない。あなた方に頼まれても自決させるような命令は持っていない。あなた方は、畏れおおくも天皇陛下の赤子である。何で命を粗末にするのか。いずれ戦争は終わる。村を復興させるのはあなた方だ。夜が明ければ、敵の艦砲射撃が激しくなり、民間人の犠牲者が出る。早く部落の者を解散させなさい。今のうちに食糧のある者は食糧を持って山の方へ避難させなさい」。

村の三役たちは30分以上も粘っていましたが、仕方なく帰っていきました。

●3月25日、忠魂碑前にて


本部壕から帰る前に、盛秀は恵達に、「まだ個人壕にたくさん人が残っていると思うから、一度忠魂碑の前に呼び出すように」と命じました。初枝には、役場の重要書類を持ち出して焼却するように命じました。二人は一足先に帰って行きました。帰り際に私は、「助役さん」と声をかけました。「秀幸か?」と盛秀は答え、「君たちの家族は忠魂碑の前の方に、自決すると言って来ていたよ」と言いました。私は、これを聞いて泣きたくなるような気持ちでした。

私は年齢もまだ15歳の少年でした。軍の伝令という大役をおおせつかり、谷から谷へと伝令をもって駆け回っていました。梅澤隊長の自決中止の命令を偶然聞いたので、これで家族は大丈夫だと安心した矢先の盛秀の言葉でした。私は家族のことが心配でたまらなくなりました。

私は忠魂碑に向かう盛秀ら村の三役の15メートルくらいあとをついて細い山道を下りていきました。恵達と初枝はずっと先を歩いています。途中、米軍による照明弾が空高く打ち上げられ、山や谷は昼間のように明るくなりました。その間はどこかに身を隠し、消えるとまた歩くという繰り返しでした。

村の幹部たちは、先頭から助役、収入役、村長、校長の順番で忠魂碑に向かっていました。その前には民間人が10人ほど歩いており、私の後ろからも急ぎ足でどこかの家族が14~15人ついてきていました。忠魂碑の近くの学校の裏手に出るころには、恵達と初枝は横道に入って役目を果たすために出かけたようで、姿は見えなくなっていました。

私は三役の後ろについて忠魂碑の前に出ました。そこには老人と子供ばかり80人くらいの人が集まっていました。家族ごとにあちこちにかたまっています。あたりは煙で人の顔もよくわからないほどでした。私は自分の家族をさがしましたが、碑に向かって右手の30メートルほど離れた窪地にかたまって座っているのが目にとまりました。祖父と母はすぐにわかりましたが、姉の千代の姿が見えません。私は大きな声で「千代姉さーん!」と呼びました。「はい!」という返事が返ってきました。私は千代に、「皆、無事か?」と訊きました。「皆無事だよ。あんたは大丈夫か?」と返事があったので、「僕も大丈夫だよ」と答えました。母・貞子が「秀幸、こっちに来なさい」と言いましたので、私は家族のいる方に近寄っていきました。そこには、祖父、祖母、母、姉、妹、弟の家族6人がそろっていました。私は母の手を握り、思わず涙ぐみました。家族のことが心配であり、会いたくて仕方なかったからです。私は、祖父、母、姉から、役場の伝令が忠魂碑前に集まるように伝えて来たいきさつを詳しく聞き出しました。

夕方、村の役場の女子職員が伝令でシンジュの宮平家の防空壕に来て、お米の配給を取りに来るように言いました。私の家の壕には木炭はありましたが、七輪はありませんでした。お米の配給をもらってもご飯を炊くことはできません。それでも、姉がお米をもらいに出かけようとしたら、祖父が「千代、行くな。艦砲が激しいから、行ったら帰って来れなくなる。飢え死にしてもいいから行くな」と止めました。そのうち、防衛隊の漁撈班に行っていた長男の秀信が、玄米のごはんのお焦げを持って来ました。それをみんなで食べるか食べ終わらないかのうちに、午後8時ころ、役場の伝令役の宮平恵達が壕のところにやって来ました。うしろには宮平ツルの姿も見えます。恵達が、「ほい、ほい、誰かいるか。僕は恵達だが」と声を掛けました。「はい」と母が返事をし、祖父が「フカガリク[屋号]の恵達か?」と訊きました。恵達は、「はい、フカガリクの恵達です」と答えました。

恵達は、「おじい、軍の命令で自決するから、忠魂碑前に集まってくれ。軍が殺してくれる。爆薬をくれるというから、アッという間に終わる。遅れたら自分たちで死ななければならないよ。遅れないように、ぐそうすがい(あの世に旅立つ時に着けていく晴れ着)を着けて来てください」と言いました。それで、祖父は羽織を着け、家族も正装して、午後9時ごろ、忠魂碑前に連れだってやって来たということでした。

祖父は、「爆雷はいつ来るのか?」と言い、貞子も「何で早く自決をさせないの?」と訊きます。そこで私は、声を潜めて、「そうではないよ。お母さん、おじいちゃん、それは軍の命令じゃないからね。死ぬことなんかないよ。たった今、本部の壕からここに来たのは、村長、助役、収入役、校長、それから恵達だよ。今さっき、役場の三役が梅澤隊長に自決するから爆薬を下さいと言ったんだけど、隊長が断って、自決用の弾薬も何もない、自決してはいけないと命令したので、この役場の人たち、自決をやめさせるためにここに帰って来たんだよ」と説明しました。

祖父は「軍の命令でもないのに、きれいな着物を着て、自決はいつかと待っていた」と不平を言い、母も、「軍の方から何も貰えないのに、『軍が忠魂碑の前で自決させるから』と言ってみんなを呼び出しておきながら、今あんたの話を聞いたら、自決は中止だというんだから」と、村の幹部について批判的なことばを口にしました。

村の幹部たちが忠魂碑の前にやって来た時、集まっていた住民は一時総立ちとなりました。村の三役らが自決用の弾薬を持って帰って来たと思ったのです。幹部は忠魂碑の右下に固まって、しばらくの間、何事かを相談していました。私の耳に、「村長、もう、あともどりはできませんよ」という声がしたのだけが、はっきり記憶に残っています。声の主は盛秀助役だったのか、収入役だったのか定かではありません。

そのうち、村長が、「今から大事な話をするから、みんなこっちに寄って来なさい」と人々を忠魂碑のすぐそばまで呼び集めました。私と家族は、忠魂碑から5メートルほどのところにあるタブの木の生えた井戸のところまで近づいていきました。もっと近くに寄ろうとしたのですが、掲示板に遮られ、その周囲にはすでに他の家族が座っていたので、それ以上近寄ることはできませんでした。村長の声は小さかったが、それでも話ははっきり聞き取ることができました。

村長ひとりが忠魂碑の階段を上り切った一つ下の段に立って、「これから軍からの命令を伝える」と話を始めました。集まった人々は、いよいよ自決命令だと思って緊張しました。ところが、村長の話は次のようなものだったのです。

「みなさん、ここで自決するために集まってもらったんだが、隊長にお願いして爆薬をもらおうとしたけれど、いくらお願いしても爆薬も毒薬も手榴弾ももらえない。しかも死んではいけないと強く命令されている。とにかく解散させて、各壕や山の方に避難しなさい、一人でも生き延びなさいという命令だから、ただ今より解散する」。

村長の話は2~3分で終わりました。村長が解散命令を出したのは午後11時ころです。私は時計を持ってはいませんでしたが、見上げたら上弦の月が真上にかかっていたので、その高さから大体の時刻を判断できました。もちろん、厳密、正確というわけではありません。このあと、助役や収入役は、忠魂碑のすぐ下のところで、集まった人々と何ごとかをしばらく話していました。そのうち、「産業組合の壕から来た人は戻って下さい」という声が聞こえました。二人の役場職員が、鉄砲をかついで産業組合の方角に去って行くのを、私は目撃しました。

村長の解散命令を聞いた人々は、命拾いしたとすすり泣いていました。戦地に夫を出した母親は、どうして子供たちを死なせるのかと思い悩んでいたのです。

しかし、忠魂碑の前の集団自決が中止となり、解散したからといって、翌日に予想される米軍の上陸に伴う恐怖がなくなるわけではありませんでした。そのあとどうすべきか、立ち去りがたいまま、その場に居残っている家族もいました。

その時、上空から米軍のセスナ機が超低空で飛んできて、学校の東側の畑(ソウタガニク)の上空に2個の照明弾を投下しました。忠魂碑の前は、真っ昼間のように明るくなりました。セスナ機は反転して、忠魂碑前に集まっている民間人を偵察して去って行きました。それから5分も経たないうちに、忠魂碑の上の山の稜線に、バン、バン、バンと、3発の艦砲弾が撃ち込まれました。これに驚いて、忠魂碑前に居残っていた人々は、子や孫の手を引いて、クモの子を散らすように散っていきました。暗くてよく分からないなかで、他人の子を自分の子と取り違えてしまうというようなあわてぶりでした。

私の家族は、自分たちの壕に帰るか、山の方に逃げるか、自家に宿泊している兵隊さんのいる整備中隊の壕を訪ねるか、思い迷いました。祖父母は、米軍の上陸が必至である以上、結局自決するしかないと思っていました。その上、足が弱って歩けないので、自分の家族の壕に戻って死のうと言いました。母・貞子は、米軍に捕まって姉の千代が辱められることを一番恐れていましたので、「みんなで一緒に死のう」と主張しました。千代も同じ意見でした。貞子と千代は、宮平家に寄宿していた兵隊さんたちのいるヤマトンマの整備中隊の壕を訪ね、顔なじみの兵隊さんたちに殺してもらうようお願いしようと主張しました。

こうした家族会議の結果、母や姉の意見に従うことにして、整備中隊の壕に出かけることになりました。しかし、私は内心、日常、兄弟のように親しくしている兵隊さんたちが自分たちを手荒に扱うはずがないと思っていました。自分たちをかくまってくれるのではないか、という期待がありました。顔なじみの兵隊さんに殺してもらうというのは、整備中隊の壕を訪ねる口実のようなものでした。

●3月26日、整備中隊の壕にて


私の家族7人は、ヤマトンマの整備中隊を目指して移動を開始しました。時刻はすでに12時を回っていました。私がはいていたズボンは人造繊維のもので、ここ数日の激しい行動の中で、あちこちに穴があいてしまい、見るも無惨な姿でした。一番下の4歳の秀頼は、大きな鍋を頭からかぶせ、その上に風呂敷をかぶせられるという珍妙な姿でした。家族は全員、はだしでした。

母と私が祖父母の手を引いて、高月山の道を上がっていきました。祖父は足の両関節が曲がりません。祖母は片方の手首が骨折して曲がらず、足も不自由であり、加えて喘息の持病を持っていました。二人は、「もう、阿佐(整備中隊のある地名)まで行く体力はない。私たちはここで死んでもいいから、あなたたちは逃げて行きなさい」と言いました。私と母は「今まで生きるも死ぬも家族一緒なのだから、とにかく一緒に逃げてください」と祖父母を説得しました。

高月山に上がる道には、忠魂碑から戻ってきた民間人や朝鮮の軍属が大勢、鍋や米を担ぎ、列をつくって歩いていました。照明弾もさかんにあがり、艦砲弾も撃たれていましたが、私はもう、怖いという気持ちはなくなっていました。番所山と阿佐部落に降りてゆく分かれ道で、番所山に向かって行く兵隊さん、朝鮮の軍属、民間人に分かれを告げました。薄い月明かりの下、立ちこもる煙の中を家族は整備中隊の壕を目指しました。こうして家族7人が整備中隊に着いたのは、忠魂碑前を出発してから2時間近くも経った、午前2時ごろでした。

整備中隊の入口には衛兵が2,3名、銃に着剣して立っていました。その中に顔見知りの牛込一等兵がいました。彼は「どこに行くか?」と私の家族を止めたので、「私たちは座間味から避難して来た者です。会いたい兵隊さんがいるので是非会わせて下さい」とお願いしました。もう一人の衛兵は望月上等兵でした。望月上等兵は「会いたい兵隊は誰だ」と訊きました。

壕の中から、内藤中隊長、池谷少尉、落合軍曹、木崎伍長、藤江兵長、の5人が出てきました。「このさなかに、何しに来たの?」と兵隊たちにとがめられました。私は、「軍から自決命令が出ているといって忠魂碑前に集まったけど、解散になった。それで、よく知っている兵隊さんに万一の時は殺してもらおうと思って参りました」と言いました。兵隊たちに殺してもらうというのは、母と姉の案を私が代弁したのです。

すると兵隊たちは、「軍の命令なんか出ていないよ。死んではいけんぞ。死んで国のためにはならんよ。国のため、自分のために生き延びなさい。日本の連合艦隊はまだ動いていないが、連合艦隊が逆上陸してきたら、万が一救われるチャンスもあるから、家族ひとりでも生き残りなさい。決して死に急いではいけない」と励ましてくれました。そして、「ここは夜が明けて敵が上陸してきたら戦場になるから、ここに避難はできない。自分の壕にいた方がいい」と諭すように話しました。

私は、「軍のお話をきかないつもりはないのですが、私たちは避難するにも食糧が全然ないのです」と言いました。兵隊たちは、「家族が食べる分はこちらから支給する。その食糧をもって、生きられるだけ生き延びなさい」と言って、米(玄米)をくださいました。米は、靴下のような形の、白くて長い袋にいっぱい詰め込まれていました。その靴下を3本渡してくださり、「これだけあって水があれば、1日1食食べてひと月は生きられるだろう」と言いました。その他、鰹節1本、乾パン2袋、金平糖1袋をいただきました。

家族が整備中隊を出発する時、「今来た道は艦砲射撃が激しいので、整備中隊の壕の前の谷間から上がって行きなさい」と勧められました。別れ際にも兵隊たちは、「決して自決するんでないよ。生きられるだけ、生き延びなさいよ」と何度も念を押しました。

●3月26日、第二中隊の壕にて


私たちは、教えられた谷間の川を、手をつないで登っていきました。ようやく整備中隊から70~80メートルほど進んだところに来ましたが、頂上付近はあまりに艦砲射撃が激しく、どうしても進むことができません。そこで、谷間の岩に腰を掛けて、これからどうするか相談が始まりました。空腹に耐えかねて金平糖の袋を開け、1人に2,3箇ずつ分け与えました。みんな、「おいしい、おいしい」と喜んで食べました。それから、私が伝令の役目をするときに使っていた、高月山の裏側に上がる細い道を行くことに決めました。一人ひとり、崖っぷちから手を引いて引っ張り上げました。

途中、「仏の御前」という拝所があり、家族全員、この業火の中を生き延びることができるよう守って下さいと念じて手を合わせました。拝所を立ち去る時、空を見上げると、爆煙の中に月がぼんやりかすんで見えました。

ようやく高月山の細い道に出たので、それからどうするかということになり、自分たちの壕に戻ろうということになりました。このときはすでに午前4時ごろになっていたはずです。高月山から第二中隊の壕がある方角に向けて、恩納河原の道を下がっていきました。この時、ものすごい艦砲射撃が襲ってきました。

途中にご真影奉安室の壕がありました。そこへ一時避難しようと思ったのですが、近づいてみると、すでに艦砲射撃にやられてつぶれていました。天皇・皇后のお写真の面隠しのためか、防空壕の入口に布が張られていました。母は、万が一家族が怪我をしたときの包帯代わりにと、この布を失敬しました。

家族は艦砲射撃の激しさに進退窮まった状態でした。しかし、田んぼに出てみると、向かいが特攻隊の第二中隊の壕であることがわかりました。私は、真っ先に昌子をおぶった千代を行かせました。次に、秀頼をおぶった貞子を行かせました。道路は細いあぜ道であったし、私は整備中隊でもらった食糧を背負っていました。祖父母も足が悪く、身動きがとれませんでした。そこで、私の左の手で祖母を押すようにして歩かせ、祖父を右手で肩に担ぐような格好で進み、やっと第二中隊の壕にたどり着きました。

そこにも衛兵が立っており、「誰だ!」と声をかけられました。私は、「実は民間人ですが、整備中隊の日直室の家族です。今はものすごい艦砲射撃の嵐なので、どうしても自分たちの壕に戻ることができません。幼い子供、老人もいますが、やっとここにたどり着いたので、艦砲が弱まるまで少し避難させてもらえませんか」と頼みました。「われわれはもう出動準備中で、もうじき出るから民間人は無理だ」という返事が返ってきました。

この時、田村邦夫少尉が壕の裏口から出てきて、「ここは本当は民間人が入ってはいけないのだが、艦砲がやむまでしばらくここで避難してもいいよ」と許可してくれました。壕の中に入ると、特別幹部候補生の方々は、救命胴衣を着け、剣を持ち、帽子をかぶり、すさまじい格好をしていました。

田村少尉は、「われわれの食べ残しだが、われわれもこれが最期だ。缶詰の残ったものがあるので、あなたたちは腹も空いているだろうから、食べなさい」と言って、みかんの缶詰などを開けてくれました。このところまともな食事にありつけず、睡眠も不足していたので、缶詰をいただいた私たちはそこでうたたねをしてしまいました。

眠ってから10数分も経っただろうか。裏口に立っていた衛兵が、大声で、「隊長!今、艦砲射撃は、阿真の海岸を攻撃中です。今なら少し時間の余裕がありそうです」と叫びました。田村少尉は、「今、出なさい!」と言って、家族全員を裏口から出してくれました。「また、元気だったら会おう。決して死ぬでない」と田村少尉は家族を励ましてくれました。私たちの命の恩人ともいうべき田村少尉は、その後の斬り込みで亡くなりました。

●3月26日、山城安次郎教頭


私たち家族が第二中隊の壕を出て、高又川という細い川のそばを歩き始めた時、座間味部落の方角から一人の兵隊が刀を下げて走って来ました。近づいて見ると、国民学校教頭の山城安次郎先生でした。先生は私たちに向かって、いきなり、「民間人は皆死ねと言っているのに、何でうろちょろしているんだ。死にきれないのか。死ぬ道具がないなら、今、私が叩ききってやるからそこに並べ」と叫んで腰の日本刀を抜きました。

のど元に刀の先を突きつけられた祖父が、「殺すのを待ってくれ」と言うと、「玉砕命令を出しているのに、何で死なないのだ」と先生は言います。祖父は、「山城先生。夕べ、忠魂碑の前で、『部落民は死んではいけない、集まった人を解散させて、山なり、谷なり、防空壕なりに避難させなさい、ということだったので解散する』と村長が言ったのに、今頃になって先生が私たちを殺そうとするのは、どういうわけですか。部隊長も本部壕で村の三役に、自決させてはいけないと言っているのに、今になって殺すとは、誰の命令ですか」と口答えしました。母も祖父に口添えしました。

山城教頭は、「玉砕命令は、梅澤隊長の命令ではない。昨日(3月25日)の昼過ぎ、村長、三役で決め、郷土防衛隊長(宮里盛秀)の命令として出させたものだ。各自、個人個人の壕を回って、軍の命令だと言って忠魂碑の前の広場に集合させなさいと伝達させたのだ」と答えました。

祖父は、「夕べは自決命令は中止と言って、取りやめさせているのに、なぜ先生は家族を殺そうとするのですか。今、この川で殺されたら、我々家族の遺体は海に流れ、誰の骨かわからなくなる。兵隊に行った二人の息子が帰ってきたら、家族がいないと悲しむだろうから、死ぬのだったら自分の壕で死ぬ」と言いました。

山城教頭は、「臆病者たち。お前たちはそれでも日本人か! いざという時は舌をかみ切ってでも死ね! 私の家族には手榴弾を渡してきたから、もうとっくに自決は終わっているはずだ。産業組合の防空壕も、みんな揃って自決が始まっている」と言いました。山城は抜いていた剣をさやに収め、本部壕の方向に上がって行きました。

それから私たちは、座間味部落を横切り、自分たちの壕にたどり着きました。

●3月26日、負傷し米軍の捕虜となる


私は、食糧をおろすと、すぐに今来た道を高又川の方角に引き返しました。戦隊本部に戻るためです。途中、アメリカ兵が機関銃を撃ってきました。私は田んぼの小さなあぜ道に身を隠しました。5,6メートル上の土手で迫撃砲弾が爆発しました。左の足がふいに棒で叩かれたような感触を覚えました。背中の方もえぐられたようで熱く、血が流れていました。左の大腿部を触ると、固いものがゴツゴツとしているのです。立って逃げようとしましたが、立ち上がることが出来ません。

日本兵が松の木の下で怪我をした兵隊を看病していました。私を見つけると近づいてきて、「おい、若いの。怪我は浅いから大丈夫だ」と言いました。ヨードチンキを塗って、三角巾で仮包帯をしてくれました。兵隊は私をそこに残し、「もし、アメリカ兵がここまで来たら、助けを求めて捕虜になりなさい」と言って、山の上のほうに去って行きました。

傷の痛みはあるが、どうせ死ぬなら、腹ばいになって自分の壕に帰り、家族の前で死にたい、と思いました。肘をついて、匍匐前進しながら、座間味部落の方に下っていきました。学校の東側のソウタガニクまでやっとの思いでたどり着きました。そこにアメリカ兵がやってきて、私を見つけて私の頭に銃を向けました。私が生きているのがわかると、体を裏返しにしました。白地に赤い十字のマークのついたヘルメットをかぶった兵隊が3人、タンカーを担いでやってきて、私をタンカーに乗せました。私は捕虜になりました。3月26日、午前11時ころのことです。私は役場に連行されました。私の家族も捕虜になり、午後3時ごろ、私は祖父母、母、姉、妹、弟と再会しました。私が傷つき、血だらけになっているのを見て、母はその場に立ちすくんでしまいました。私は「大丈夫だよ」と声をかけましたが、母は「大丈夫って言っても、その傷どうするんだ」と言いました。私は「治療してもらうから大丈夫だよ」と答えました。

家族が捕虜になって来たとき、役場の前の溝にアメリカ兵が4,5人、捕虜の見張り番をしていました。民間人は、その時点ですでに20~30人が捕虜になっていました。

3月26日の晩、捕虜になった民間人と避難できなかった年寄りたちは、役場に収容されました。役場はガラスも壊れてバラバラになっており、周囲をアメリカ兵が囲んでいました。捕虜になった民間人を日本兵が殺しに来るかも知れないということで、捕虜を守っていたとのことです。

アメリカ軍は部落中をジープで走りながらマイクで放送し、投降を呼びかけていました。夕方5時頃、放送が終わると、米兵は自分のヘルメットに一杯ずつ、ビスケット、缶詰、チョコレート、キャラメル、キャンディーなどを、私たちのいる役場の高窓越しに投げ入れました。初めは皆、奪い合って食べました。毒が入っているかはどうでもよかったのです。

しかし、米兵は次から次へと持ってきます。役場の中は食料の山となってしまいました。ただ、米兵は3箇のアルミの容器(水筒)に水を入れて持って来ましたが、これだけは誰も一切手を付けようとはしませんでした。水筒の水は薬品くさく、毒が入っていると思って誰も飲まなかったのです。その夜、役場に収容された私たち民間人捕虜は、お菓子を敷き詰めた床の上で寝る羽目になりました。(以上)


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