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藤岡意見書(大阪高裁提出資料)2/3

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藤岡意見書(大阪高裁提出資料)2/3

平成20年7月28日
藤岡 信勝
PDFソース:http://www.jiyuu-shikan.org/pdf/ikensho.pdf


第三 本田靖春ルポにおける宮平証言との食い違いについての分析


  3月28日、大阪地裁判決ののち、法廷から出てきた私をつかまえて沖縄タイムスの記者・吉田啓が「本田靖春のルポでは宮平さんは自分の家の壕にいたことになっているがどうか」ときいてきました。それは、『小説新潮』1987年12月号に掲載された「座間味島一九四五」という文章をさしています。

  本田靖春は座間味島を取材し、ノンフィクションシリーズ「犬一匹、海峡を渡る」と題して『小説新潮』に連載しました。そのテーマは、秀幸の家で飼っていたマリリンという犬にまつわる話だったので、秀幸は本田の取材に協力しました。本田の連載に秀幸の名前がしょっちゅう出てくるのはそのためです。マリリンは映画「マリリンに会いたい」のモデルになった雌犬です。そのうち、本田は犬の話よりは集団自決の話に興味を移していく。「座間味島一九四五」は連載の三回目にあたります。

  私はこの件についても秀幸に問い合わせました。秀幸は本田のこの文章を読んでいなかったので、私がファックスで秀幸の家に送信しました。秀幸は当時、本田から連載のコピーをもらったが、どうせ犬の話だと思っていたこともあって、よく読まないうちに、秀幸が経営するペンション高月の建て替えのための引っ越しの際、手伝いの人が不要な書類と勘違いして焼いてしまったとのことです。秀幸はあわてて燃え残りの中から1編のコピーを拾い出し、今も手元に保存しています。それは連載の4回目に当たる「第一戦隊長の証言」と題する文章で、そこに集団自決のことが詳しく取り上げられていたので、連載の3回目に「座間味島一九四五」として、ここでも集団自決のことが書かれているとは知らなかったのです。

  本田の文章のうち、秀幸の話をもとに書いたと思われる箇所は次の通りです。傍線は藤岡が付けたものです。

【  午後十時を期して全員で集団自決するので忠魂碑の前に集合するように、との命令を宮平さんのもとに届けに来たのは、村役場から伝達員という役目を言いつかっていた男女二人であった。
  「じゃ、死ぬのはどういうふうに死ぬのか、って訊いたんです。そうしたら、軍の方から爆雷(特殊艇用)を提供してくれるような話だから、爆雷で吹っ飛んだら、全然苦しむようなことはない、夢見ている心地であっという間に死ねるから、この爆雷が爆発し終わらないうち間に合うようにぜんぶ参加してくれ、っていうんですよ。死に対する参加なんですね」と宮平さんはいう。
  伝達員があわただしく引き返して行ったあと、彼は考え込んでしまった。
  父秀松さんはセレベス島にいて、家長不在である。大正十四年生まれで当時十九歳の長兄秀信さんは防衛隊員となって以来、軍と行動をともにしている。その二歳下の次兄秀昭さんは海軍を志願して佐世保にいた。したがって、三男である宮平さんが数えの十六歳にして一家の中心的存在になっていたのである。
  祖父母、母、姉、妹、弟に自分を加えて、家に残る家族七人の命運がいままさに尽きようとしていた。忠魂碑の前へは行かず、山に逃げ込めば生き延びる可能性もないではないが、それには命令違反のうしろめたさがつきまとう。しかし、宮平さんの気持ちは逃げる方に傾いていた。とはいっても、一人で断を下すには重すぎる問題である。いかにすべきかを、まず母貞子さんに問うた。
  「みんな死ぬんだったら、うちらだけ残ってもしようがないから、一緒に死んだ方がいい」というのが母の意見であった。
  次に祖父母の考えを訊いた。
  「私たちは年を取っているし、この身体では弾の中を逃げ回るのは無理だから、死んだ方がいいだろう」と次良さんが答えた。彼は既述のようにリュウマチを患っていて、両脚を前へ投げ出した形でしか坐れず、歩行に困難が伴っていたのである。
  大正十二年生まれで二十一歳の千代さんも、自決に賛成した。逃げたところでいずれは米兵につかまって、犯されるか殺されるかするのが落ちだから、というのがその理由であった。
  家中の大人が死を選択するという。だが、宮平さんは六歳の妹(昌子)と四歳の弟(秀頼)の顔を交互に眺めながら、幼子まで道連れにする集団自決に対して、どうしても疑問を捨てきれなかった。
  「いろいろと考えて、おふくろにこんなこともいってみたんです。母さん、死ぬのは簡単だけど、兄さんたちが生きて帰って来たときに、われわれが骨になっていたら、親きょうだいの姿もわからないというので、どんなに嘆くか知れない、とね。そうしたら、吹っ飛ばされたら、うちらばかりじゃなく、みんなそう>なるんだから、って。じゃ、そういうふうにしようかということでーー」
と宮平さんは、家族の話し合いが決着した場面を語る。
  祖父母は羽織袴で正装し、母と姉は晴れ着を身にまとい、こどもたちもとっておきの外出着に着替えて、宮平家の七人が忠魂碑の前に着いたのは、そろそろ午前零時になろうとしていたころであった。
  役場から伝えられた刻限を二時間も過ぎていたのだが、ほかの人たちも、集合が遅れていた。おそらくは宮平家の場合と同じく、どの家でも集団自決に加わるか否かをめぐって、長いこと重苦しいやりとりが交わされたのであろう。結局、集まって来た住民は、老若男女とも死出の身仕度を整えていた。
  だれかが軍に爆雷をもらいに行った、という話がその場に流れていたが、待てど暮らせど現物は届かない。そこへ、米軍の小型機がエンジンをとめた滑空状態で飛来し、集まっていた住民たちの上に照明弾を投下した。それからものの十分と経たないうちに、忠魂碑を目がけて物凄い艦砲射撃が始まった。
  その場に居合わせた人たちは、一斉に四方に逃げ出して、土手のかげや畦道の縁に伏せた。よその子を自分の子と間違えて連れて逃げる母親も、二、三にとどまらなかった、と宮平さんはいう。
  艦砲射撃は約二十分間でいったんやんだ。そのすきに住民たちは山へと逃げ込む。そして、その夜から米軍上陸の二十六日にかけて、島内の各所で、いたましい集団自決が次々に起きるのである。 】

  本田ルポと宮平証言との食い違いはなぜ生じたのか。私の分析を以下に述べます。まず初めに、他の座間味島民と同様、宮平秀幸もまた村の同調圧力に屈して、集団自決について本当のことを語ってこなかったという事実を指摘しなければならない。宮城初枝の「血ぬられた座間味島」という題の手記を中心にして編集された『悲劇の座間味島―沖縄敗戦秘録』(一九六八年、非売品)という本がある。これに「序文」を寄せた当時の田中登村長は、「米軍の包囲戦に耐えかねた日本軍は遂に隊長命令により村民の多数の者を集団自決に追いやった」と書いた。田中村長は、このように自ら「隊長命令説」を活字にしただけではなく、村人に厳重な箝口令を布いていた。

  田中村長は集団自決のことを語れる村民の目星をつけて役場に呼び出し、集団自決の真相を語らないよう口止めをした。秀幸も村長に呼ばれて役場に行き、「これからマスコミの取材が来るが、本当のことをしゃべってはいけない。援護金がもらえなくなったら座間味の人は飢えてしまう。それでもよいのか。いかなることがあっても、あれは軍の命令であったことにしなければならない」と強く言い渡された。秀幸の姉・宮城初枝も、秀幸の母の貞子も、村長から同じことを言われていた。

  とはいえ、マスコミの取材に対し何も語らないというわけにはいかない。集団自決について語ってもいい部分と、絶対に語ってはならない部分とがある。語ってはならない部分とは、「梅澤隊長命令説」を否定することになる話題である。それは突き詰めると、(1)本部壕で村の幹部に梅澤隊長が自決用の弾薬の提供を拒否し、さらには「自決するな」と命じたこと、(2)忠魂碑の前で野村村長が「解散命令」を出したこと、という二つのポイントに絞られる。

  このうち、本部壕に行った人間は限られているから、そのなかの生き残りの宮城初枝が証言の鍵を握っていると考えられていた。他方、忠魂碑前で村長が解散命令を出したことは約八十人の村人が聞いている。もっとも、八十人の多くは老人や子供だったから、今となっては生き残りの証言者は極めて少ない。老人は当然亡くなっているし、子供はものごころもついていない小さい者が多かったからである。

  いずれにせよ、忠魂碑前の村長の解散命令の件は、村ではタブーとして扱われてきたと考えられる。私は二月と三月に座間味島を訪れ、秀幸証言の裏を取るために二十数人の村人にインタビューをしたが、「私は忠魂碑前には行っていない」と、災難を避けるかのような語調で村人が語ることにはじめは奇異な感覚をもっていた。今では「忠魂碑前」の話題そのものが禁忌に近いものとして触れたくないという、村を支配した空気の反映であったと考えている。そういうわけで、忠魂碑前の出来事についての村人の証言は、これを慎重に吟味しつつ取り上げなければならないことになる。以上のことを踏まえて、以下の検証を読み進めていただきたい。




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