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金城武徳『パイン缶詰は戦争の味』

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渡嘉敷村史資料編(昭和62[1987]年3 月31日出版)P391

パイン缶詰は戦争の味

渡嘉敷 金城武徳(当時十四歳)
  • (引用者注)括弧つき小見出しは引用者が付したもので原文にはありません

(軍隊がやってきた)


 親父は、昭和六年に南洋に出稼ぎに行って十七年か十八年に帰ってきて、沖縄戦のとき、親父は四六歳、おふくろは四四歳、長女、長男、私、親父が帰ってきてから生まれた、私と十四歳違いの弟、それにおふくろのいとこと七名家族だった。

 十九年の夏休みが終った直後、鈴木隊、しぼらくして赤松隊が、この渡嘉敷にやって来た。

 軍隊が入ってきて学校は接収され、私たちは、青空教室、雨が降ると近くの民家にイッサンバーエー(一目散に馳け)して隠れる状態でした。

(10.10空襲)


 一〇・一〇空襲の後は、大方の家で防空壕を掘るようになったが、私は、その頃小学校高等科二年生で、防空壕を掘って御真影(天皇の写真)をあずかったり、軍歌の練習をするのが日課で、勉強どころではなかった。

 一〇・一〇空襲の朝、私たちは、学校に行かないで浜に行っていたが、沖縄本島が黒煙に包まれて、飛行機が、雲のようにかたまりになったり、バラバラになったりして飛んでいるのを見て、渡嘉敷出身の古波蔵善光、この人は、戦地で永いこと軍属として働いて、経験のある人だった。

 「那覇は、まちがいなく空襲だ」と、いった。するとそぱに居た兵隊が、「上官でさえわからないいものを」と、いっていたが、学校の給食室(炊事場の事か)に最初の爆弾が投下され、他にも二発、落とされ島中大騒ぎになり、「演習だ」「いや、本物だ、空襲だ」と、いっていた人たちが、爆弾が破裂して、それからみんな防空壕にとびこんだのです。

 爆弾を落とした飛行機は、そのままの姿勢で島の南側にむかってバンナイ(続けざまに)行くのが壕の内からも見えた。

 後でわかった事だが、そこには、島の鰹船の嘉豊丸が餌とりをしていて、機関長が、その日犠牲になりました。

 他にも軍の徴用船が爆撃されて炎上、海にも爆弾がぽんぼん落とされて、魚が浜にうちあげられるほど沢山死んで浮いていました。

 一〇・一〇空襲の前後から、防空壕や避難小屋もあった。多分、戦争体験のある人たちが教えたのでしょう。谷間や山あいに作ってありました。

 私が家に逃げ帰ったら、母たちは、子どもたちを連れて、みんな避難小屋に移動していたので、私も、そこに馳けつけた。

(3.23)


 次の年の三月二三目の空襲のときも、兵隊は、「友軍の演習だ」と、いっていた。

 米軍の上陸前の空襲ですよ。

 ちょうどその日は、春の彼岸で、仏壇にお供えしたりする日で、食糧も少なくなりかけのときの御馳走だし、餅だとかてんぶらなぞ何時もあるわけでないし、供え物をしていたら、十時か十一時頃に空襲がはじまって、慌てて自分たちの壕に避難した。

 あまり激しくて、自分たちの壕まで行けず逃げ遅れた人たちも一緒に入りましたよ。

 供え物の御馳走は、泥まみれ、砂まみれになっていたが、たまにしかない餅とか、あげ豆腐だから、砂を払いおとしたり、泥をつまみとったりして、壕のなかで食べました。

 その日から、夜も空襲があり、二五日までぶっとおし、機銃掃射された時などは、壕に寝ころんでいても、どこの家が、誰の屋敷がやられて燃えていると、いうのがわかるほどでした。

 自分たちの家も、曳光弾か焼夷弾で燃えあがったが、兄と一緒に行って消し止め、焼けるのをまぬがれたが、二六日のユサンディ(夕方)から艦砲射撃がはじまった。

 三日も四日も壕の内で、非常食といっていた砂糖入りのハッタイ粉や鰹節を、なめたりかじったり、黒砂糖やそういったものは、どこの家庭でも準備していました。

 爆撃や艦砲で焼け野原になって、軍は、あっちこっちに食糧を野積みしてあったが、米なんか俵ごと焼かれたりして、防衛隊が片付けていたが、僕らの壕の下にも缶詰などが積まれていて「食糧やるから降りてこーい」と、いわれて、手伝いに行くと、缶詰類など相当もらってきた。今、盆だとか御中元で缶詰セットを貰うでしょう。そのなかに、パインの缶詰を見ると、すぐ戦争を想い出します。

 あれは、戦争の匂いがしてくる。

 あの戦(イクサ)のとき、食べ物もロクになかった時、日本軍の果物缶詰というとパイン缶が、いちぱん多くて、壕や避難小屋で、それを食べたとき、スゴクおいしく感じたからです。

 防空壕の内で…… 周りはなにもない、家も焼けた、屋敷がこいの、台風よけの木も焼けたなかで、パイン缶詰の甘さ、香り、私にとって戦争の味です。

 米軍は、二五日までに焼くだげ焼き払って、二六日からは、四方八方からの艦砲射撃です。


(3.26)


 防空壕の内に座っていても、アハー、ナマヤ、マーカラ、ウッチョーサー(あ、今は何処らあたりから撃っているな)、ハリガー(地名)カラ、ウッチヨーサー、ナマー、ビルカーラ(地名)、ナマーヒラマチ(地名)、ナトゥンドー(のあたりだ)と、いう具合にわかりました。

 二六日は、朝から艦砲射撃で、破壊すべきものは破壊して、空からは、焼きつくし……、今度は、いよいよ上陸だ、口にはださなくても誰の胸にも、もう戦(イクサ)が、アメリカーが、と、思っているわけです。

 二七日に本格的な上陸が始まった(※1)、これからは長期戦だ、ということで、防空壕を出て、神杜のうしろを通って、親父がオンナガーラにつくってあった避難小屋を目ざして行った。着いたときは、もう日が暮れていました。

  • (引用者注)(※1)これは、本格的な上陸は27日だったことを後で知った、という注釈でしょう。以下なお、26日の話が続いています。

 昔、段々畑だったところにつくった避難小屋で、土砂降りの雨のなか、ひと晩そこですごして、また避難しないといけないということで、夜明け前に別の谷間に移動しました。

(3.27)


 二七日は、ウフジシクビ(地名)の谷間で昼中すごした。その時に村長の米田さんと、偶然いっしょになり、村長さんがいうには、(シンカヌチャー、ナマカラルドゥ、日本ヌ連合艦隊ヌ、ンジティチャニスセー、シンカヌチャー、サワグナヨー)(みなの衆、肝をすえて、空騒ぎをするなよ、連合艦隊がやってきて、アメリカーをやっつけるのは、これからだ、慌てふためいて、ぶざまな事にならんようにな)。

 僕らは、村長さんは、本心でいっているな、村民をおちつけるためではないな、日本は、絶対に勝つんだ、と思っている、という事が感じられる語調でした。

 土砂降りの雨のなかを食糧を置いてあるオンナガーラの避難小屋に夜になってもどりました。

 僕らが、オンナガーラに降りていったら、伝令がきて、この人は農林学校出身で、玉砕で亡くなった人で、名前はいわないほうがよいと思う。

 この人は、あっちこっちの避難小屋を巡って、「軍ヌ命令ドゥヤンドー、ニシヤマ(北山)ンカイ、避難シイガ、イカントゥナランテンドー(軍の命令で北山に避難するよう、行かないと駄目だぞ)」と、伝えていた。

 伝令にいわれて、うちの母は「ナー、ワッター、ナマドゥ、チョークトゥ、ワラビンソチャーン、アミンカイ、ンダチ、チャシン、シヌアタイヤレー、ツマウティ、シヌサ、マーンジ、シナワン、ヰヌムンドゥヤクトゥ、ワッター、ナー、マーンカイン、イカンドー(私たちは、今ついたぼかりだし、子どもたちも雨で濡れねずみだ。どうせ死なたけれぱいけないものなら、何処で死のうが同じ事だ。私たちは、此処を動かないよ、村で死ぬ事にするから)」。母は、生まれてまだ六か月の、僕と十四歳違いの赤ん坊を抱いているし、それに、母の従妹が三人も子どもをつれていました。

 母が、伝令にそういうと、おばさん(母の従妹)が「姉サン、アンイチン、ナユミ、チュヌ、イチュトゥクマヤ イチルスル(姉さん、そんなこといわないで〔村の〕人びとの行くとこは行かんといけないのじゃないの)」といった。

 それからまた、準備をして雨のなかを「軍ヌ命令ドゥヤンドー(軍の命令だ)」と、伝令がいっていた所を目指して出発した。。

 オンナガーラを出て、途中、部隊本部になった所を通りかかると、兵隊が壕を掘っていた、それを見て「あ、やっぱり軍の命令なんだ、僕らを保護するために壕を掘っているのだな」と、思った。

 壕を掘っているところまで行ったら、兵隊が「あっちに行きなさい」と、指示したところに着いたのが、夜半の三時頃だった。

(3.28)


 土砂降りの雨で、濡れた服を着けたままかわかして、夜が明けて辺りを見ると、あっちこっちの谷間に、大勢避難していた。

 うすうす此処で玉砕するという事は聞いていた。一〇時頃、まだ爆弾なんか落ちてこなかったが、何かの合図で集まったのか、誰か命令したのか、みんな集まって来たけど「今じゃない、別れろ」と、いわれた。

 次に「集まれ」と、いわれた時に、弾が激しく落ちてきた。いつの間に、誰が渡したのか手榴弾が全部に配給されていた。

 僕らは、兄の同級生と一緒にいて、三家族で二発の手榴弾、信管付きと導火線(ミチピ)付きとを渡された。

 二八日の三時頃、玉砕がはじまった。

 その時、村長が立って演説して「天皇陛下万歳」の音頭がとられ、僕らも「天皇陛下万歳」と、三唱したあとで手榴弾の安全栓を抜いたが、不発だった。

 一緒にいた防衛隊の人たちが「此処で死ねなかったから、今度は、本部に行って機関銃をかりて死のう」と、いうことで「ついて来い」と、いわれて、僕らもワーワーしながら本部に行ったら、軍の本部だか民間人は入れないのに、ワーワー騒いでしまったので、将校連中はワヂッて(怒って)、また、僕らがなだれ込んだために、アメリカーに迫撃砲をバンバン撃ぢ込まれた。

 僕らは、兵隊に「出て行け、出て行け」と、どなりつけられ、田所中尉なんか、僕をにらんでいっているのかなと、思うほど、ブーブーいっていた。

 やがて弾もおさまって、今、第二玉砕場と呼ばれている所に避難しろといわれ、そこに移動した。

 僕らが、本部になだれ込んだとき、兵隊が一人やられて倒れた。その兵隊は、息が絶えるまで、「天皇陛下万歳」という言葉は、ひと言もいわなかった。

 「お母さん、お母さん」と、あれは十五分ぐらい呼び続けていたでしょう。その声がしだいに虫の音になっていった。

 衛生兵が二人きていたが、殺したのか、看病したのか、そこらは判然としないが、たぶん、ちゃんと看護したと思うが、大勢の兵隊や民間人の見ている前で「お母さん、お母さん」と、いっていた。

 あの頃は、日本の兵隊は死ぬとき、「天皇陛下万歳」と、叫んで死ぬんだと、僕らは教育されたが、そんな事は全然いわなかった。僕は、その事が非常に印象に残っています。

 話は少しもどるが、玉砕場で自決しようとしたとき、うぢの母が「カンナタル日本デチアガヤー、ウリヤカ、ディ、捕虜ナラ(日本という国は、こんなみじめな国になってしまったのか、それより、いっそうのこと摘虜にでもなろうか)」と、アピトールパー(いってしまった)。

 よくもまあ、いったものだと思いましたよ。

 もし、兵隊にでも聞かれていたら、すぐ討ち首だったはずよ。

 それから、本部で兵隊にいわれたように、第二玉砕場に移動しました。

 あの時は、弾がとんでくると、乳呑児を弾の方向につき出した、この児を残して、親が先に死んだら……親がいなけれぱ生きていくことが出来ないし、飢えて苦しませて死んでいくより、先に死んでもらった方が、赤ん坊の為にもと思って……

 おばさんと末っ子のチイちゃんという子が、ここで亡くなった、おばさんの子どもで、ひろ子も左手を貫通され、この子は、母親に抱かれて一緒に倒れたので、二人とも死んでいると思っていた。

 僕らは、玉砕場で亡くなった人たちを、川のなかに倒れたままにしておくと、雨が降ったとき流されるからと、日が暮れてから、みんなで引き揚げておいた。川上から川下の土手みたいな所に少し移しただけですがね。

 「死人と一緒に寝るものじゃない」と、いわれて、死んだ人たちを寄せてあるところから、三〇メートルほど離れたところで休んでいると、夜の九時か十時頃「お母さん、お母さん」と、女の子の声がした。

 いくら呼んでも、お母さんが返事をしないものだから、今度は「ウフー(大)チャーチャー(伯父さん)、ウフーチャーチャー」と、呼びはじめた。

 「ウフーチャーチャー(大伯父さん)」というのは、僕の親父のことですが、死んでいる子どもが呼ぶわけはない、ゆうれいかな、と思って、みんな耳をすませていたら、やっばり子どもの声に間違いないいうことで、もう、親父は怖がって動かない。それを見て、兄は十九歳で、若いものだから、「見てくる」と、立ちあがった時、

 今度は、「たけおにいさんよー」と、呼んでいるわけさー、もう間違いなくひろ子だ、ということで「連れて来る」と、いって、死人を片付けてあるところに行って、三〇人か四〇人余りの死体のなかから捜し出して連れて来た。

 あの時は、少しでも多く着けさせていたら、弾よけにもなると、着物をたくさん着けさせていたが、ひろ子の左手は、骨が砕けてブラブラして、血糊がついて、着物とベッタリくっついて、脱がすことも出来ないので、袖を包丁で切り捨て、やっと着換えさせた、その時、ひろ子が、七歳になるシージャ(兄)に「ニイニイ、オトーガ、ムドゥティクワー、アカマンマカムンド(兄さん、お父さんが帰ってきたら、赤飯を食べよう)」と、いってね。

(4月以降)


 四月一日に避難小屋にもどって、長期の避難生活が始まった。五月までは、食糧にさして不自由はしなかった。米もちゃんと、保管してあったし、また、軍の米も沢山出廻っていたし、六月頃になって、手持ちの食糧は、食いつくし、蘇鉄などを食べはじめた。

 また、一期作で植えつけた米は、山の避難小屋から近い所は、刈り取りじゃなく、穂を摘みとって小屋に持ち帰って、一升壜に詰めて籾にしたり、玄来から精白したりして食いつなぎました。

 稲を摘みに行く途中、アメリカ軍が仕掛けた地雷を踏んで、若い連中が犠牲になったり、ダー、田圃に行くのは、力もあって足も早くなければならないでしょう。

 地雷にひっかかって死ぬのを見ていても、食糧を捜して、家族を養わんといけないしね。

(虐殺)


 一番怖ろしかったのは、基地隊といってね、支那事変から帰ってきた連中でした。

 朝鮮人軍夫が、この連中に斬られるのなんか簡単だった。渡嘉敷の住民も虐殺された。

 僕の記憶では、七人殺されている。

 一番最初に殺されたのが、カネマチ小(グヮー)のおじさん、上陸作戦が始まってから、椎の実を採るといって、ワーワー騒いで、気が狂ってしまって、赤松隊長に斬られた。

 二番目は、大城さん、スパイ容疑で斬られた。

 大城さんは、海軍軍属だったので徴用されなかった。とても絵のうまい人で、白いさらし木綿に、虎の絵を描いて、千人針を作ってやったりしていたが、南洋帰りと、いう事でスパイ容疑がかかったのでしょう。

 それから、精和さん、古波蔵セイキチ、という、ガンヂューおじさん、大城徳安先生も斬られて、字阿波連の小嶺武次で五名、あと二人は、終戦になって、山を降りてきて、自分の家族を捜して連れ帰る、といって、山に登って行き、斬られている。

 僕らの目の前で、軍夫が斬られる事もあった。同僚に穴を掘らせて、裸にして、うつぶせにさせて斬る、可愛想だった。斬ったのは、山本軍曹。

 昭和五二年、村長と赤松の副官だった知念さん、僕の三人で大阪に行って赤松なんかに会った事がある、戦友会で慰霊祭をするというのでよばれて行った時、村長が、赤松に「なぜ、おまえは、終戦になってから、自分の家族を捜しにと、山に登った者まで斬ったのか」と、間うと、赤松は、「あれは、僕じゃない、西村大尉が命令して中島が斬ったようだ」と、いっていた。

 上官の命令は、天皇の命令だ、ということで、斬らした。

(山を降りる)


 山を降りたのは、八月に入ってから、親父が、脚気になって、海岸ぞいに移ろうと思って、従兄たちのところに移ったら、その時が終戦の日、八月十五日だった。

 村の人も、その晩、ほとんどの人が山から降りて来た。



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