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(9)陣中日誌 海上挺進第三戦隊(下)

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1970年改本・谷本版

(9)陣中日誌 海上挺進第三戦隊(下)

(引用者注)昭和20年7月から昭和21年1月10日までを(下)としました。


昭和二十年七月

七月二日晴

 ○五三○稲垣少尉以下八名阿波連方面に於いて通信業務に従事中情勢の変化に伴い(沖縄本島軍司令部最後の斬り込を取行し玉砕したるものと思われ以後通信が途絶したるものと判断)連絡不能となり通信器材を携行、本部に帰隊す。

 日時不祥、防衛隊員大城徳安数度に亘り陣地より脱走中発見、敵に通ずる虞ありとして処刑す。

 米軍に捕えられたる伊江島の住民米軍の指示により投降勧告、戦争忌避の目的を以て陣地に進入、前進陣地之を捕え戦隊長に報告、戦隊長之を拒絶、陣地の状態を暴露したる上は日本人として自決を勧告す女子自決を諾し斬首を希望、自決を抱助す。

七月三日

 第二中隊多里少尉以下A高地の敵陣に攻撃を実施之を撃退の上引揚ぐ、整備中隊の重機関銃之れを側面より援助攻撃す。敵は渡嘉敷に退避す。

 戦利品 自動小銃二、弾丸六箱、手榴弾一三、鉄帽一、

 昨日に引続き捜索隊を編成出発す。

七月四日

 知念少尉以下十名、曽根一等兵及び軍夫捜索の為、渡嘉敷島南部阿波連方面に向かい出発す。

 一七○○A高地付近及び阿里賀稜線迫撃砲並びに軽機の連射はげしい。

七月五日

 ○二○○須賀上等兵以下二名、捜索より帰隊す。

 一三○○捜索隊河崎軍曹以下七名逃亡者四名を逮捕し本部に護送帰隊す。

 本日を以て捜索隊を解散各原隊に復帰せしむ。

七月六日

 一四○○~一七○○渡嘉敷方面よりA高地整傭中隊、前進陣地へ迫撃砲、重機、自動小銃の乱射激しく飛行艇も前日と異なり早朝より哨戒巌なり。

七月七日

 A高地に於いて敵の遺棄せし自動小銃にっいて本部兵器将校南少尉より該中隊に使用法を教育す。

七月八日

 敵情昨日と変化なし。二○○○第二中隊田中伍長以下三名、芭蕉蘇鉄採集班となり留利加波にて採集中留利加波沖に停泊中の艦船より攻撃を受け田中伍長右大腿部擦過傷、中本伍長右手に擦過傷の軽傷を負えり。

七月十日

 ○八三○片桐一等兵、栄養失調のため戦病死す。海峡の艦艇甚しく数を減ず。

七月十六日

 整備中隊芝山一等兵、渡嘉敷に於いて戦死す。

七月十八日

 ○五○○本部軍医、浮田少尉戦病死す。

七月二十日

 第三中隊原口伍長栄養失調にて戦病死す。

七月二十一日

 一六○○座間味方面より第一中隊陣地栗良波方面に敵の高射砲らしきものの水平射撃を受く、第一中隊田村伍長、左手切断、右大腿部に重傷を負えり。

七月二十七日

 依然敵は攻撃して来る気配も見えず、唯日夜迫撃砲を主力として砲撃するのみ。

 一一○○第一中隊稲森一等兵栄養失調のため戦病死す。

 本部陣地杉橋一等兵栄養失調のため戦病死す。

七月二十八日

 ○八○○本部陣地加藤上等兵栄養失調のため戦病死す。


昭和二十年八月

八月一日

 船舶団所属若山兵長、栄養失調のため戦病死す。

八月三日

 武装兵一五○名上陸す。

 ○○二○~○四三○頃迄の間座間味高射砲陣地よりと思われる的なる砲撃、約一五○発、攻撃を受くるも人員資材、被害なし。

 一一○○頃渡嘉敷河畔陣地と思しき方向より銀納河原方面に対し数発高射砲攻撃をなす。

 一七○○~一七三○渡嘉敷方向より迫撃砲の砲撃を受くるも我方被害なし。

八月四日

 整備中隊山内一等兵、栄養失調のため戦病死す。

 武装兵約一六○名上陸す。

 一八三○渡嘉敷方面より高射砲、迫撃砲の射撃を受くるも被害なし。本日戦闘機高々度にて頻繁に飛行す。

八月五日

 一一三○整備中隊前進陣地付近に敵迫撃砲弾十数発落下す。

八月七日

 本部勤務隊斉藤上等兵、A高地付近に於いて敵より攻撃を受け戦死、此れを捜索のため整備中隊江崎伍長茶畑陣地よりA高地を捜索中左下肢、右を負傷す。

 第三中隊犬塚伍長破傷風にて戦病死す。

 第二中隊勤務小隊田中一等兵栄養失調のため戦病死す。

八月八日

 第三中隊勤務小隊長新海中尉戦病死す。

 敵兵約三十名一四○○頃A高地に進出薄暮に至る間攻撃す。

八月九日

 一三三○~一四四○A高地91重機、自動小銃の射撃あり、A高地の敵は昨日来より陣地構築中の模様。

八月十日

 整傭中隊前進陣地に敵兵約四十名来襲す。
 第二中隊高橋伍長栄養失調のため戦病死す。

八月十一日

 ○七三○より戦隊命令に基き火網編成並びに射撃設備の点検を案施補修を行う。

 第二中隊小隊長多里少尉有賀自活班に於いて高射砲弾により戦病死す。第一中隊勤務隊荒木上箏兵行方不明となる。

 一七○○頃より迫撃砲、機銃射撃を被く、第三中隊田中伍長、退避の際転倒、顔面に負傷を受く。

 数日前郵便局長徳平氏他、渡嘉志久付近の稜線に於いて敵の潜伏斥候に捕えられたる模様。

八月十二日

 払暁数発迫撃砲弾集中攻撃を受くるも何等異常なし、第三中隊陣地方面前方に敵水上機ビラを散布する。

 一八○○東部海岸を警傭する前進陣地田所中尉本部に緊急連絡あり。

 情報連絡
 数日来より東部海岸の谷間に住民続々と集結、異常な状態となり何か敵に通ぜしものあり至急調査されたい。

 右の情報により本部知念副官谷本伍長、阿利賀恩納河原に起居する住民の行動調査に出発。阿利賀の谷間に住居せし住民は二○○○頃より食糧を整え身辺の整理を行い移動する様子でざわめき其の行動を問い正すも語らず。

 知念少尉沖縄の方言にて切々と話合うも語らず、現地に止まるよう、説得して恩納河原へ出発。

 恩納河原に到着後警備分隊長中島軍曹に状況を聞くも不明にして住民を説得、情報を得たる処によれば数日前敵に捕えられたる郵便局長の手引きにより古波蔵村長以下幹部、既に敵に降伏し敵米軍に対し八月二十日迄に村民全部を降伏せしむることを約し東部海岸に集結せしめる模様で既に大半は集結しあるとの情報である。

 之を説得に掛るも既に意思固く全く馬耳東風にして動けない者、老幼な者を残し未明警備隊にかくれ三々伍々、恩納河原を脱出す。

 戦隊長の意思通り住民の意思決定を尊重し敢えて之を阻止、攻撃せず。

八月十三日

 東部海岸へ共に行動出来なかった住民、早朝より木の枝、或は竹に白紙又白布を付けて之を掲げ恩納河原より谷間へ谷間より田団道へ、田団道より米軍陣地へ三人、或は四人、又単独にて投降す。

 東部海岸よりの駐在巡査外二名(大城防衛隊員、小学校の先生)の情報に依れば八月十日頃より東部海岸へ移動したる住民は十三日一○○○敵上陸用舟艇二隻に乗艇、残った村民に対し離岸の舟艇より機関銃を以て銃撃を加え渡嘉敷方面に去る。

 村長は八月二十日迄に悉く村民を投降せしむるため二十日以降日本軍軍隊及び残った住民に総攻撃を加え全減せしむる条件を米軍に提示したと伝えられる。

 知念副官谷本伍長駐在巡査外十数名を引率帰隊す。

 一二○○第二中隊勤務隊松下一等兵栄養失調のため戦病死す。

八月十四日

 戦隊は昨日の情報ににより(※ママ)渡嘉敷の敵陣地に対し最後の斬り込を行うべく各中隊に包囲隊形を計画直ちに実施に移さしむる。

 第二中隊高橋伍長、A高地に於いて戦死。

八月十五日

 本部通信室故障の無線機にて終戦の詔勅を傍受、敵陣地よりの放送により終戦投降の呼び掛けを受く。

 戦隊長直ちに各中隊の将校を集め訓示を行ふ。敵飛行機よりビラを散布す。

八月十六日

 早朝、我陣地内に既に投降したる村民陣地各所に敵軍よりの投降勧告文書を散布す。我歩哨線之を逮捕一部処刑す。

 投降勧告文書次の通り

慶良間列島渡嘉敷島日本軍最高指揮官に告ぐ
一、貴軍は現在特に大本営との連絡を欠きいるを以て貴官に次の情報を通報せんとする。
二、日本政府は本日午前八時(日本時間)連合軍に対し無条件降伏をなせり。
三、日本国天皇陛下は次の如く宣せられたり。
  全日本陸海軍並びに陸戦隊は直ちに対敵行動を停止し、最寄りの連合国軍隊に投ずべし。然らばジュネーブ会議に於いて決定されたる交戦規定に基き軍人としての礼儀と尊敬を受くべし。
四、投降の形式を貴軍と協定せんとす。貴官は協定のため隊長以下全員若し全員不可能の場合は若干の代表を我が軍方部に差出されたい、これら代表者は適切なる協定の成立したる後は可及的速かに貴官のもとに帰還せしむる事を予の面目にかけて致たす。
 貴官の代表者は絶対に射撃される事なかるべし。

 慶良間列島渡嘉敷島米軍最高指揮官
 昭和二十年八月十五日午前八時 サビランドエ コンノリー

 戦隊長直ちに在陣地の全将校を集合協議す。
 結果、明日敵陣地に軍使を出すことを決定、各中隊及び前進陣地に此の旨連絡、最悪の事態を考慮配備す。

 海軍水兵兵長、吉田実、陸軍一等兵川崎貞一、国頭方面より儀志布島に漂着、第三中隊の斥候結城伍長本部に連行。

 本部勤務稲葉伍長戦死す。

軍使、次の通り決定す
   陸軍中尉 木村明  陸軍軍曹 吉田政一
   陸軍少尉 知念朝睦 陸軍軍曹 中島重吉

八月十七日

 ○九三○整備隊長木村中尉以下四名軍便として出発、米軍と会見連絡、情報収集後一二○○帰隊す。大東亜戦争は終結、連合軍に降伏したる模様なり戦隊長全将校を集め協議す。明、十八日、戦隊長米軍司令官と会見することに決定、最終重要段階に到る。

八月十八日

 ○九○○戦隊長、整備隊長木村中尉以下十一名米軍司令官と会見のため出発す。

 渡嘉敷に於いて会見席上、在沖縄本島連絡所勤務高比軍曹、第二戦隊中川中尉降伏説得のため来島しあり、我軍の無条件降伏確定的なり。

 戦隊長、米軍司令官に上級指揮官の降伏命令の受領を要求、命令の伝達迄降伏を拒否、停戦協定のみを締結、意見の交換、終戦処理の協定を行う。

 一五○○帰隊す。戦隊長、本部、第一、二、三各中隊候補生、先任下士官、谷本伍長以下四名を集合せしめ終戦の経過を説明、進退の決定をせしむるも各下士官、戦隊長に進退を一任す。

 終戦処理協定に依り、明十九日、二十日の二日間戦死者の遺骨収集、兵器弾薬の集積を実施することを通達命令す。

 兵器類の携行は絶対にしない事。
 米軍陣地内に立入らざる事。

 戦隊長各隊前進陣地及び阿波連駐止斥候連下隊に副官をして其撤収を命令する。副官知念少尉各隊前進陣地に連絡之を撤収せしむ。


阿波連駐止斥候連下隊撤収せしむる連絡文  知念少尉

 連下少尉殿
 長イ間御奮闘深ク感謝ス小官貴官二思イ苦シキ事ヲ告ゲネバナラヌ時ガキタ  畏クモ天皇陛下二於カセラレテハ八月十五日大東亜戦争終末二関スル詔勅ヲ漁発(※ママ)アラセラレ大東亜戦争ハ終リヲツゲタ
 随ツテ部隊ハ昨十八日○八○○ヨリ渡嘉敷二於イテ在米軍司令官ト会見停戦協定ヲ結ンダノデアル我々軍人トシテ誠二残念ナレドモ致シ方ナシ  協定ト雖モ単二停戦ノミニシテ後ノ武装解除二非ラズ。我々ハ飽ク迄上級指揮官ノ命ニヨリ行動スベク協定シ近日中決定セル筈、貴官ノ心境小官ニハ克ク察セラレルモ又部隊長殿ノ心境モ察セラレ度 疎道幾十幾百年続クトモ戦後ノ復興二努メ戦闘開始前ノ如キ勇壮無比ナル日本ヲ再現シヨウデハアリマセンカ  又ナスベキ我々ニハ任務アリ  貴官モ大御心ヲ奉体シ忍ビ難キヲ忍ビ耐エ難キヲ耐ヘテ奮闘ノ程協定後ノ処置トシテ多数ノ整理モアリ指示モアル故 明日中二阿波連二於ケル全部ヲ整理シ本十九日中二本部二帰隊セラレ度、同伴シアル下士官 兵 防召兵モ引揚ゲラレ度。糧秣ハ持テルダケ持ツテ兵器ハ各人携行兵器ヲ外爆薬其ノ他ハ一箇所集積ヲナシ爆薬弾薬等、危険物埋没シテ数量、品目ヲ記シテ標識ヲ立テ明ラカニセラレ度  詳シキコトハ帰隊面談ノ上在阿波連間幾多ノ苦難誠二未練アル事トハ存ゼドモ何事モ命ノ侭
 右取急協定後ノ処置トシテ連絡致ス迄

 昭和二十年八月十九日 於本部
    十九日一三○○ 受領

八月十九日

 各隊早朝より、戦死者の遺骨収集を行い茶毘に附す。水上戦死者、敵陣内戦死者等遺骨収集不可能なるものは其の最も近き所の霊石を奉持する。

八月二十日

 第一中隊前進陣地に於いて各隊兵器を集積し遥か東方皇居をは拝し、兵器訣別式を行う。

 太陽は青空に輝き、青い空、青い海に唯静かに周囲の海上は数百の敵艦艇が遊弋或は停泊中なり、静かに唯荘然、戦い既に終わる。

八月二十一日

 各中隊身辺の整理を行い収集せる遺骨を戦隊本部に安置。海岸に漂着せる木材をもって白木の箱として白布を包って慰霊祭を行う、各隊の遺骨奉持者を決定各中隊に伝達安置す。

 知念少尉以下二名米軍に到り重傷者、戦病者後送のため連絡担架借用し午後帰隊す。

八月二十二日

 第三中隊 橋田伍長米軍病院に入院のため知念少尉以下八名出発、米軍司令部に到着一二○○帰隊す。

八月二十三日

 戦隊長以下十一名米軍と協定のため出発、無条件降伏の調印を行う。戦隊長以下三名敵陣営に入る。

 本部勤務西上上等兵戦死す。

八月二十四日

 知念少尉以下十名戦傷者、戦病者担送のため米軍司令部より担架を借用し午後帰隊す。

八月二十五日

 戦傷者、戦病者米軍病院に入院のため出発、担送す。

八月二十六日

 本部及び各隊敵陣営に入るため西山陣地を出発、渡嘉敷米軍陣地に入り武装解除を受く。全員座間味島収容所に入る。本二十六日を以て三月三十日より一六○日余の戦闘は終り、幾十幾百の戦友を此の渡嘉敷に、水漬き草むし或は大空に飛び散りて悠久の大義に生き、其の魂醜故郷の山河に帰り父母に或は妻子に抱かれん事を祈り吾等又祖国の復興を決意し敵軍門に降り俘虜収容所に入る。

昭和二十年十二月

十二月三十日

 座間味島収容所を出発、渡嘉志久前面より留利加波沖を経て沖縄本島に向かう。

 午後沖縄本島石川収容所に入る。

昭和二十一年一月

昭和二十一年一月三日

 石川収容所を出発、那覇港より乗船。

一月七日

 浦賀港に到着、浦賀引揚掩護局に到着、同地にて復員手続きを実施。

一月十日

 引揚掩護局に於いて復員業務完了、解散。
 各自出身地に帰郷す。


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