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(7)陣中日誌 海上挺進第三戦隊(上)

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1970年改本・谷本版

(7)陣中日誌 海上挺進第三戦隊(上)

(引用者注)昭和19年8月25日から昭和20年3月末までを(上)としました。


昭和十九年八月

八月二十五日

船舶兵特別幹部候補生隊教育終了の供覧演習に演習戦隊として第三戦隊が選ばれ土庄町双子浦沖の仮設敵船団(空母一、練習船一、SS二、LS一、海軍より魚雷艇三)に対し豊島訓練基地より発進、魚雷艇と交戦しつつ船団泊地に侵入体当り攻撃を実施、夜間攻撃は第一中隊が実施、此の演習記録映画は畏くも天覧の光栄に浴した。

八月二十六日

船舶司令官佐伯中将閣下臨席の下に終了式を行う、同日付特別幹部候補生上等兵の階級に進む。

八月三十一日

動員下令、船司作命第六三八号に依り船舶練習部に転属、同日小豆島出発、戦隊長以下香川県金刀比羅宮に参拝武運祈願を行う。

昭和十九年九月

九月三日

動員完結、船舶練習部に到着、海上挺進第三戦隊を編成、幸の浦第十教育隊に到着。

九月四日

同日より乗船準備、舟艇兵器、装備の受領、搭載、予防注射等準備完了。

九月八日

装備検閲出陣式を行う。

九月十日

乗船、二二○○宇品出帆
本部及一、三中隊の一部 大興丸
第一中隊 鉄山丸
第二中隊 香椎丸 門司にて威輿丸
第三中隊 宝来丸

九月十一日

○五○○門司到着

九月十二日

二二○○門司出航

九月十三日

一五○○天草湾到着 二二○○同湾出航

九月十四日

一四○○鹿児島湾に到着 船団編成のため碇泊

九月二十一日

○八○○鹿児島湾出航沖縄に向かう事を知らさる、第二中隊乗船の威興丸は船速が五ノットしか出ない為本船団に加われず後発船団となる。夜間奄美大島に仮泊、出発後奄美犬島沖合にて敵潜水艦の攻撃を受くるも被害なし。

九月二十六日

一○○○那覇港沖に到着、午後慶良間列島に到着揚陸開始、同日二○○○揚陸完了、沖縄県島尻郡渡嘉敷島渡志久に上陸

九月二十七日

○○○○本部渡嘉敷に到着、同日より同島に於いて任務に着く、基地配備次の通り

本部    渡嘉志久基地  装備
第一中隊  阿波連基地   戦隊長以下一○四名
第二中隊  留利加波基地  攻撃用舟艇一○○艇 二五○kg爆雷装備
第三中隊  渡嘉志久基地  一○○式自動短銃五丁
              各人拳銃軍刀武装

渡嘉敷島は那覇の西五十五㎞に浮かぶ慶良間列島の東端に位置する小島で東西約二㎞(狭い所で一・三㎞)南北約八㎞面積約十八平方キロ、人ロー・三七七人(一九四○年の統計)大部分山で覆われ。海岸付近に一部耕地があり、断崖絶壁多くまた海岸に珊瑚礁が多いため港の良い所がない、男は主として漁業に女が農業に従事して之といった産業のない島である。

九月九日

先に到着した海上挺進基地第三大隊は(大隊長 鈴木常良 十九年十二月一日少佐進級)海上挺進の基地援助警備要員として作戦準備に専念、即ち舟艇の秘匿作業、陣地構築が進められ海岸付近の山裾に洞窟を掘り舟艇を秘匿、水際に邀撃陣地を構築、谷間に幕舎作りなど村民の涙ぐましい協力を得て昼夜作業が実施された。戦隊は挺進作戦の訓練のため昼夜付近海岸及ぴ海上の偵察、航行及び攻撃訓練を行い、基地隊援助のため自ら壕を掘り抗木の伐採蒐集作業を行った。約一ケ月余遅れて到着した第二中隊は留利加波基地に入り訓練を開始したが留利加波基地は外洋に近く断崖絶壁が多いため波高く舟艇の泛水揚陸作業は困難を極め秘匿壕の掘進も遅れ作戦に支障を来たす状態となった。戦隊長は急邊基地大隊と協議、留利加波基地を変更し渡嘉志久基地に移駐せしめたが之が為基地大隊と感情的なものがあったが全軍突貫作業を実施。

  • (引用者注)旧隊員たちの記憶を寄集め、何か文献を参照して書いたものであることは、ここまでの記述からよくわかる。

昭和十九年十月

十月九日

軍司令部に於ける兵棋演習に参加のため戦隊長、知念見習士官太田正一候補生那覇へ出張。

十月十日

那覇市敵機の空襲を受け全市全焼、午後渡嘉敷島も空襲を受け港外及び港内の連絡船、漁船は悉く銃爆撃を受け炎上沈没乗員に戦死者を出した。大本営の発表に依れば台湾沖に敵機動部隊を補捉大損害を与えたるも此の艦載機の空襲を受けたる模様なり。之を台湾沖航空戦と言い沖縄基地の我が軍航空機殆ど撃墜されたる模様である。

  • (引用者注)これが昭和20年の記録ではなくて、昭和45年の後知恵であることが証明されている。台湾沖航空戦(1944年10月12日-10月16日)は大本営が戦果を誤認したことで戦後有名になったが、そうした認識が昭和19年10月10日に書かれるはずがない。しかも、肝心の渡嘉敷島での空襲の様相がなにひとつ具体性をもって書かれてない事に驚く

 海上挺進とは
 長さ五米、幅一・五米、深○・八米のベニヤ製舟艇に七五馬力自動車エンジンを載せ速力二○ノット、一二五キロ(三秒瞬発信管)爆雷ニケを搭載して夜間敵艦船に体当り爆破沈没させる目的で編成されたものである。五米以内にて爆雷攻撃を実施すれば巡洋艦大破、駆逐艦撃沈、輸送船大破沈没可能である。三艇を一組として攻撃敵船腹にて爆破せしむるもので隊員の生還は不可能である。

  • (引用者注)「陣中日誌」では、このような解説文をにリアルタイムで書き込むことはありえない。


昭和十九年十一月

十一月十日

船舶兵特別幹部候補生谷本小次郎以下八八名陸軍伍長に任官(命令未着のため翌二十年五月発令)

十一月 日

第一中隊特別幹部候補生高木直太渡嘉敷に於いて防空壕構築作業中落盤事故に遇い翌日那覇陸軍病院に入院(十二月二十四日小倉陸軍病院に移送)

昭和十九年十二月

十二月十日

第一中隊八木喜一伍長肺結核のため那覇陸軍病院に入院

昭和二十年一月

昭和二十年一月一日

風雲急を告げ緊張したる新年を迎え戦隊長以下全員記念運動場に於いて遥拝式、午後演芸大会を行い士気大いにあがる。

一月十日

知念見習士官以下九名陸軍少尉に任官

一月二十日

軍司令部より海上挺進戦隊がリンガエン湾に於いて肉迫攻撃せしことの通報あり、電文「リンガエン湾の海上挺進戦隊約七○は九日夜、敵輸送船団に肉迫、爆雷攻撃を敢行、約二○~三○隻を撃沈せしめたるもののごとし」

註 右部隊は海上挺進第十二戦隊にして舟艇五十六隻を以て三十八隻を撃沈破せるものの如し、十二戦隊の生存復員者八名

一月二十一日

第二中隊鹿田恒雄伍長右湿性胸膜炎ため内地送還となる。第一中隊松村哲夫伍長病気のため那覇陸軍病院に入院、第二中隊稲田聖伍長急性腸炎のため内地送還。

昭和二十年二月

二月中旬

(編成完結二月十七日)沖縄本島防傭強化のため基地大隊は

勤務隊の一部、
西村市五郎大尉以下一六一名、
装備 重機関銃二(弾薬一二○○発)、軽機関銃六、擲弾筒七、小銃一五二、三号無線機一、五号無線機四、電話機八、

整傭中隊
木村明中尉以下五五名、装備 軽修理車一、小銃四五
を残し独立第三大隊として沖縄本島に移動し、独立混成第四四旅団の指揮下に入る、従って残余の勤務隊、整備隊は第三戦隊長の指揮下に入り、作業援助要員として沖縄本島より特設水上勤務第百四中隊の一箇小隊、斉田重雄少尉小隊長以下下士官兵一三名軍夫(朝鮮人)二一○名が配置された。

基地大隊の移動により残留した勤務隊、整備隊、水上勤務隊は勿論戦隊員も一体となり現地防衛招集兵、青年団、婦人会、女子青年団の協力を得て必死で日夜陣地構築、訓練を続行した、戦隊本部付高比政偉軍曹那覇連絡所勤務のため沖縄本島に出発。

昭和二十年三月

三月二十日晴

第一次戦闘配備計画作業(舟艇秘匿及び出撃準備等海上作戦の準備作業)完了のため戦隊は本二十日、二十一日の二日間を休養日とし各隊休養す。戦隊長は村民の労を慰うため村長以下各指導者と共に会食し労をねぎらった。

三月二十一日晴

休養日正午敵機B29一機北東より侵入高度約二〇〇〇米南西に脱去

三月二十二日晴

戦隊は第二次戦闘配備計画に基き基地構築特攻訓練を開始、海岸砲十糎加農砲受領のため勤務隊より下士官外座間味島へ連絡船にて出発、午前一〇〇〇頃、午後一四三○頃二度に亘り敵磯B29高空にて侵入退去す、敵の来襲近しを知る。

三月二十三日晴

陣地構築は昨日と同じく続けられる、一〇〇〇頃より突如敵機数十機渡嘉敷島及ぴ周辺の慶良間列島に対し空襲、焼夷弾を主とした銃爆撃を受く、敵の投弾目標は地上棲息設備なるものの如く民家並ぴに渓谷陣地に対し爆弾、焼夷弾攻撃を受け至る所山火事を発す。

一二三〇 第三中隊小松原少尉、防衛隊及び女子青年団員を指揮、渡嘉敷部落に急行、住民の避難消火作業を行う。各基地との有線通信連絡途絶。

一三〇〇 各中隊対空射撃を実施。

一四〇〇 阿波連基地に於いて対空射撃班の至近に爆弾炸裂、

戦隊  横山小一伍長、木岡年丸伍長、
勤務隊 小杉保居上等兵 伊藤吉三郎上等兵 長町謙吉上等兵、防招兵四名、
水上勤務隊二名、合計十一名戦死。

戦隊  樺山祐夫伍 長藤原清人伍長
勤務隊 服部上等兵 中道上等兵。防召三名、
水上勤務隊三名、計十名負傷

舟艇三小破 軽機二 小銃七損焼、
第一中隊兵器庫、糧秣庫、直撃弾のため焼失、
勤務隊土工機材庫、第一、三機材庫焼失、
渡嘉敷 糧秣庫焼失。
敵機の来襲 延べ約三〇〇機、

 一八○○ 敵機脱去後各中隊通信線の復旧、山火事の消火作業、棲息設備の復旧作業を行う、戦隊長以下三名第一中隊阿波連基地を視察、現地を指導し第二中隊をして応援せしむ。


三月二十四日晴

 敵艦載機約五○機夜明けと共に来襲、常時滞空旋回爆撃を受く基地設傭地上陣地、棲息設備 渓谷に爆撃、焼夷弾攻撃機銃掃射を受く昨日と同じく山火事を起す、

 一○○○軍司令部より軍情報入電。情報 「敵機動部隊は首里起点一六○度五○浬の地点に近接しあるものの如とし。」

 戦隊長左の日命を下達す。陸軍中尉田所秀彦(ママ)、渡嘉敷警備隊長となり防衛隊並びに連絡所勤務者を指揮し渡嘉敷村落の警備に任ずべし、敵機退去後舟艇の整備、器材修理、弾薬糧秣の集積、通信線の復旧、消火等全員夜を徹して行う。敵の来襲及び我が挺進隊の出撃間近なるを予測す。

三月二十五日晴

 暁と共に敵機の空襲を受く。

 ○六○○頃 阿波連岬第一監視哨より南方洋上に機動部隊らしきもの発見の報告入る。

 ○八○○ 機動部隊の船影確認、第一弾久米島に艦砲射撃開始。

 ○九三○ 敵機動部隊は巡洋艦、駆逐艦、潜水艦、砲艦等約十五隻慶良間海峡に侵入我が地上陣地、基地設備に熾烈なる艦砲射撃を受く、我が方反撃する火器なきため水際陣地及び防空壕に於いて夜のとばりを待つ。

 一七○○頃より 敵機動部隊監視艦を残し南方洋上に退去、各中隊出撃準備のため燃料の補給、爆雷の点検を行う。

 二○○○ 戦隊長出撃を考慮し独断各隊1/3の舟艇に泛水を命ずると共に本島船舶団本部に「敵情判断如何」と打電した。各中隊は前記戦隊命令により勇躍泛水作業を実施官民一体となってこの作業は概ね順調に行われた。

 二一三○ 船舶団本部より下記命令を受領。
「敵情判断不明、慶良間の各戦隊は情況有利ならざる時は所在の艦船を撃破しつつ那覇に転進すべし。那覇港到着の際は懐中電灯を丸く振れ船舶工兵之を誘導収容す。」

 戦隊長在渡嘉志久の各隊長を集め前記船舶団本部命令を検討協議の上本島転進に決し全舟艇の泛水を下令、各隊は1/3泛水に引続き残り3/2※ママの泛水作業を決行。

 第一中隊より阿波連湾内に敵駆逐艦進入第一中隊の泛水作業不可能との連絡を受く。

 折から慶良間列島を視察中の第十一船舶団長大町大佐以下十五名敵艦艇の中を突破阿嘉島より阿波連西方に上陸渡嘉志久本部に到着。大町大佐直ちに戦隊の泛水作業中止を下令し戦隊長より状況を聴取す。(※)
  • (引用者注)(※)「戦史資料 昭和二十一年一月九日調整」の記述とは明らかに違う

 戦隊長前述の泛水転進の決心を説明許可を求めたが団長容易に同意せず団長の本島護送を求められ、種々協議の結果左の戦隊命令を下達した。

 夜に入り戦隊長は敵情に備えるため各中隊に出撃準傭を命令、第一中隊の状況説明のため高取少尉本部に到着、

戦隊命令、於渡嘉志久本部(※)
 一、敵情 略
 二、戦隊は主力を以て途中の敵を撃破しつつ船舶団長と共に沖縄本島に転進せんとす。
 三、渡嘉志久基地の戦隊各中隊は直ちに全舟艇を泛水出撃を準備すべし。出撃の時期は別に示す。
 四、整傭中隊は舟艇に一名宛整備兵を附し戦隊と行動を共にすべし。
 五、第一中隊は機を見て出撃沖縄本島に転進本隊に合流すべし。
 六、戦隊出撃後勤務隊西村大尉は勤務隊、水上勤務隊を指揮し敵を邀撃すべし。
 七、余は現在地にあり爾後本部舟艇付近に至る。

(※)命令番号なし。上記「団長容易に同意せず」と矛盾

三月二十六日晴

 ○○○○出撃準備命令 湾外より艦砲射撃を受け水面にて瞬発信管により散弾飛び散りまた焼夷弾山を焼く中泛水作業、爆雷装着、湾内の警戒等次々と行うも残留、敵を邀撃する基地勤務隊 特設水上勤務隊の感清交錯し干潮のためリーフ各所に露出延々五時間余を要し東天既に黎明近く白昼編隊を組んで敵機動部隊の中をベニヤ製の攻撃艇が沖縄本島に到着すること不可能となるを考え船舶団長再び艇の収容揚陸を命ず。

 戦隊長現在便用し得る人員を以てする揚陸は不可能と判断、船舶団長に所在の艦船に対し出撃命令の下令を懇願せしむるも空しく、他戦隊の作戦に影響大なりと考え戦隊長以下全員揚陸作業を行うも、第二中隊舟艇秘匿壕にロケット弾命中し、空襲退避中の藤田伍長負傷す。

 又、第二中隊基地小隊江崎伍長空襲時の破片で負傷(グラマンの機銃弾)既に陣地に立篭もりたる勤務隊、水勤隊等の連絡悪く最も困難を極め数艇を揚陸したる時敵機の空襲を受く。

 茲に於いて遂に涙をのんで残余六十余艇の舟艇に対し自沈を命令す。阿波連基地第一中隊は阿波連湾内に敵駆逐艦侵入、洞窟より舟艇を引き出しエンジン始動せばたちまち砲撃を受け炎上、泛水作業全く不可能となる。

 本部二、三中隊は自沈舟艇より取外したる爆雷を以て渡嘉志久基地水際に埋没信管を装着し地雷となす。残余隊員は勤務隊と合同し水際陣地に着く。

 隣接の第二戦隊阿嘉島には敵上陸を開始、敵機常時二、三十機上空にあり爆撃、海上には数十隻の艦艇にて艦砲射撃を受く。

 タ刻二中隊の陣地旭沢に集結。船舶団長大町大佐以下那覇軍司令部帰隊のため護送任務を第三中隊に命令。第三中隊第二戦闘群長中島少尉以下四名船舶団長護送任務に着く。

  操縦手 中島伍長          操縦手 竹島伍長
  整傭  土肥技術伍長        整備  田中技術上等兵
  第一番艇乗艇者           第二番艇乗艇者
   軍船舶団長   大町大佐      第五基地隊長   三池少佐
   独立第三犬隊長 鈴木少佐      独立第三大隊付  新海中尉
   船舶隊副官   山口中尉      船舶隊付     木村少尉 

 「事故あるも各艇互に救助せず」との申合わせの後那覇に向け出発、第一中隊泛水出撃作業を行う整備中隊長をして応援せしめるも出撃全く不可能なり。

 本日の損害  勤務隊本部   川合上等兵 戦死
        水上勤務隊軍夫 二名    戦死
        戦隊第二中隊  三島伍長  負傷


三月二十七日晴後雨

 転進出撃命令により二十六日夜来より泛水作業を実施しあった第一中隊は本日も敵艦艇の攻撃を受け泛水作業出撃すること不可能となり各隊、水際で戦闘の後複廓陣地に撤退の旨下令の後、○二○○より戦隊長以下本部、第二中隊主力 旭沢より渡嘉敷北方複廓陣地に向かう。

 南少尉以下五名、二十六日夜出発した二番艇遭難したる模様の三池少佐以下五名の捜索に儀志布島付近に出発、午後本部に収容帰る。

 ○四○○留利加波方面の敵情偵察のため本部知念少尉以下四名(谷本伍長、久保田伍長、池田伍長)出発、敵約ニケ中隊、水陸両用戦車十両上陸中帰隊報告、A高地にて邀撃を準備すると共に水際陣地に配備中の二中隊の勤務隊及び整備中隊を複廓予定地に撤退、第一中隊は舟艇破壊後複廓陣地に撤退、第三中隊に之が掩護を下令す、○六○○敵は戦車三十数両約一ケ連隊を以て留利加波、渡嘉志久、阿波連、東部海岸の方面より砲爆撃掩護の下上陸を開始。邀撃隊は直ちに交戦、渡嘉志久峠の第三中隊高塚小隊は第三皆本中隊長指揮の下、長時間敵戦車部隊と交戦、小隊長以下殆ど戦死。部隊本部二、三中隊整備隊の北方陣地転進を容易ならしめた。

 第一中隊は本隊に合流すべく阿波連より撤収するも渡嘉志久峠の敵に阻止され突破することを得ず東方山中に潜伏、タ刻本部二中隊整備隊北方陣地に到着直ちに陣地構築を開始。

 二○○○より戦隊本部谷本伍長、小野伍長、通信隊より川崎軍曹、整備隊より中島軍曹、渡嘉志久旭沢付近の敵情偵察のため出発、整備隊吉田軍曹以下十五名渡嘉敷より弾薬移送のため渡嘉敷へ出発。本部主計より楠原主計中尉以下二十名糧秣移送のため渡嘉敷へ出発。

 本日の損害
 勤務隊   高塚春次郎少尉  岩田淳一伍長 三江忠 江渕満 市川栄
       戸田房次郎上等兵 川崎清吾 鈴村賢三 木内繁雄
       村川茂一一等兵戦死
 整備隊   杉本嘉一上等兵戦死
 水上勤務隊 軍夫六名戦死


三月二十八日小雨 晴 夜小雨

 昨二十七日留利加波方面に上陸したる敵は一部海岸稜線上を渡嘉志久へ、一部は我陣地北側の高地に布陣せるものの如し、各隊陣地の構築を行う。第三中隊の主力到着。

 昨夜出発したる各部隊夜明けと共に帰隊道案内の現地防衛招集の一部支給しありたる手榴弾を以て家族と共に自決す。本朝二、三件の模様なり。

1、各隊全員陣地稜線上にタコ壷を掘る。

2、一四〇〇陣地の北の谷に避難していた住民陣地内に崩れ込む、住民の異様なる叫び声阿鼻叫喚の中へ。北方の敵陣地より迫撃砲攻撃を受く、戦隊長防召兵を以て之を鎮めしむ。

 二十七日未明「通信隊は軍司令部に対し戦隊長敵情報報告、電報を打ち五号無線一を残して破壌、本隊に合流 三号無線機一 五号無線機二 破壊

3、勤務隊辻中尉防衛招集兵の手榴弾暴発のため負傷田所中尉副官業務を行う。

 第三中隊高塚少尉戦死のため独立第三大隊付新海中尉第三勤務小隊長に命ず。

 本日の損害
   通信隊    里見芳郎上等兵 戦死
   勤務隊    多田健一上等兵 林時三一等兵 戦死
   水上勤務隊  阿部盛雄軍曹  軍夫五名 戦死
   防衛招集兵  小峯上等兵以下八名戦死(自決者含む)
   勤務隊    辻政弘中尉山田上等兵負傷

4、二○○○頃二中隊正面軽機関銃座に敵襲を受く。

5、小雨の中敵弾激しく住民の叫び阿修羅の如く陣地後方に於いて自決し始めたる模様

   注 自決し翌日判明したるものである。


三月二十九日曇 雨

 悪夢の如き様相が白日眼前に晒された昨夜より自決したるもの約二百名(阿波連方面に於いても百数十名自決、後判明)、首を縛った者、手榴弾で一団となって爆死したる者、棒で頭を打ち合った者、刃物で頚部を切断したる者、戦いとは言え言葉に表し尽くし得ない情景であった。

 而し我等は戦闘が先決であり一人でも多く敵を倒さなければならない。勤務隊、水上勤務隊を以て犠牲者の埋葬を行う。

○七○○月敵は迫撃砲を以て熾烈なる集中砲火を加え来り敵機は終日上空に在り銃爆撃を加ふ我が方の損害軽微なり。

知念少尉以下五名留利加波方面の敵情偵察のため出発。楠原主計中尉以下五十名渡嘉敷、旭沢の糧秣集積移送のため出発、全員帰隊、損害なし。

 本日の損害
 防衛招集兵  新垣上等兵以下六名 戦死(自決者含む)
        古波蔵上等兵以下三名 負傷

三月三十日曇

 ○三○○頃○五○○頃の二回東方海上に爆音と敵艦艇の対空砲火交錯し火柱の揚るを認む、我が方の特攻機と判断す、敵機は連日と同じ二○~三○機を以て常時滞空し銃砲撃を加ふ。

 第一中隊阿波連より未だ到着なきため本部張間中尉、向山伍長以下八名を以て阿波連方面の偵察捜索に出発、防衛招集の新垣常雄陣地より脱走行方不明、楠原主計中尉以下全員無事帰隊、我が方損害なし。

 敵情、留利加波、渡嘉志久に陣地を構築しありたる敵は双方共海岸迄撤収。然し阿波連の敵は依然陣地を構え四方無差別砲撃を行ひあり、阿波連の一中隊未だ健在なりしか。


三月三十一日晴

 1 敵戦闘機 爆撃機常時一○~二○機上空に在り旋回銃爆撃を加ふ。
    ○九○五 阿波連沖に敵空母
    ○九二五 渡嘉敷沖敵潜水艦二隻浮上
 2 慶良間海峡の敵艦船、
   空母二、戦艦五、巡洋艦九、駆逐艦一五、上陸用舟艇五 六○隻
   飛行艇三○
 3 一○○○儀志布島に敵戦車一兵力三○名上陸
 4 各隊別紙要図の如く監視哨を設置直ちに任につかしむ。
 5 部隊長以下五名各陣地並ぴに敵情偵察
 6 中島軍曹以下渡嘉志久方面の弾薬収集に出発
 7 楠原主計中尉以下五十名渡嘉志久旭沢の糧秣収集に出発
 8 第一中隊長以下主力阿波連より到着陣地配備陣地構築を行う
 9 各隊主力を陣地構築、防空壕構築に専念する。
 10 終日艦砲射撃を受く、本日特に沖縄本島に向ける集中砲火を加える。

 第一中隊の状況
 第一中隊は二十六日以降敵の艦船の攻撃を受け出撃すること出来ず全舟艇を破壊、本隊に合流すべく阿波連を撤収、渡嘉志久高地に上陸せる敵に前進を阻止せられ二、三度斬り込突破を行うも前進不能となり東部海岸より海上突破、本隊に合流したものである。従って一部所在不明者が多数なり。




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