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赤松資料:陣中日誌 海上挺進第三戦隊 昭和45(1970)年作成

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pipopipo555jp

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赤松資料 改本・谷本版

陣中日誌 海上挺進第三戦隊 昭和45(1970)年作成


新情報
防衛研究所資料「沖台・沖縄405」がWEB上で閲覧可能であることが分かりました。

沖縄戦関係資料閲覧室
http://www.okinawa-sen.go.jp/view.php?no=B0301130

【データ】
防衛庁 陣中日誌  配架場所:B03防衛庁
整理番号: B03-1-130
収蔵文書名:
簿冊名: 海上挺進第3戦隊 陣中日誌(複製版)(昭和19.8~21.1)
原本所蔵機関: 防衛研究所
請求番号: 沖台 沖縄405



「陣中日誌」ならぬ「陣後日誌」

「陣中日誌」と命名するものの、この文書の実体は25年後の昭和45(1970年)に、皆の知恵を寄集めて書かれた「陣後日誌」である。大阪地裁「集団自決」裁判書証甲B19。大阪地裁判決における評価大阪高裁判決における評価


(※) WEBで陣中日誌を解読した「はい 青木です!」さんによれば、
……『陣中日誌』は,戦場における部隊の「公的」な記録=戦記である。この第一次資料の価値がある、一般的に『陣中日誌』は,部隊の指揮班の准尉が書くということになっている。第五師団第一建築輸卒隊の場合 ,本部書記の小林工兵伍長が書いたものと推定される。ウソも誇張もない代わりに「事実」の羅列である。多くの人の眼に触れるだけに,感情的な記述も,感想といった記述もない。……
http://mx32.tiki.ne.jp/~yamikato1952/jintyu/jintyu1.html
ということだが、この赤松隊『陣中日誌』は様相を全く異にするようだ。




「正しい歴史」を作りたい

この『陣中日誌』の編纂計画について赤松元戦隊長は、発刊2年前の1968.4.8琉球新報のインタビューで次のように答えている。

"命令しなかった”「正しい歴史」を作りたい

‥‥広く沖縄戦史などによる「あれほど自分の口で玉砕をさけび、自らはゴウの中に避難して暴虐の限りを尽くしながら、倣岸な態度で捕虜になり…」などと書かれているが―。

 住民は軍の任務を知らないのだから、そう思えたのだろう。舟艇の出撃は軍司令官が出すものだ。私の判断で出撃を準備していたら……「敵状判断不明、戦隊は状況有利ならざる時は本島、糸満付近に転進せよ」と電報がきた。

 しかし、そのころ渡嘉敷島に来た大町大佐(沖縄全陸軍船舶隊隊長)に出撃体制に入っているのをとがめられ、敵の偵察機に発見されたので破壊して沈めよ―と命令されたのだ。そして体当たりは私も考えていたが、命令できなかったというのが事実で、防衛庁の記録にも私の処理が正しかったことが書かれている。ゴウにいたのは中隊への非常用食糧、弾薬の確保を指示していたためだ。

‥‥集団自決は命令したのか。

 絶対に命令したものではない。自決のあったあとで報告を受けた。しかし、防衛隊員二人が発狂して目の前で自決したことはある。当時の住民感情から、死んで部隊の足手まといにならぬよう―という気持ちだったと思う。村長が機関銃を貸してくれ、自分が全部殺すというのを押しとどめたほどだ。

 軍のゴウといってもお粗末なもの、住民が入れるようなところではなかった。同じようなケースの自決は、沖縄にはいくらでもあったはずだが、なぜ渡嘉敷島だけ問題にするのか、私にはよくわからない。日本が勝っておれば自決した人たちも靖国神社にまつられたはずだ。

‥‥スパイ容疑で殺された人たちのことを聞きたいのだが。

 私が命じて処刑したのは大城訓導だけだ。三回も陣地を抜けて家族の元へ帰った。そのたびに注意したが、また離脱したので処刑した。私の知らないものもあるが、伊江島の6人、2人の少年はいずれも死を選ばせた。気の毒だが、当時の状況からやむをえなかった。

‥‥なぜ赤松隊長は悪評をかっているのか。

 部隊の華々しい戦闘を期待したのだろうが、われわれは特攻を主任務にしており、地上戦をまるで考えていなかった。それが大町大佐の命令ですべて徒労に終わったからだろう。それに小さな共同体のこと、わたしを悪人に仕立てた方が都合がよかったのではないか。住民には決してうしろめたいことはない。

‥‥戦記の発行を計画しているとか。

 わたくし自身は、そっとしてほしいのだが、いろいろ中傷されると戦死者の名誉のためにも黙っておれなくなる。1月に初めて第3戦隊の同窓会をした。60人ほど集まったが、そのとき新しい戦史を作ろうと話し合った。いずれ沖縄、とくに渡嘉敷島にも行ってみたい。70年までには―と計画している。

目次


改本・谷本版「陣中日誌」海上挺進第三戦隊 昭和45(1970)年作成

  • 予定

(1)渡嘉敷島戦闘の概要 赤松嘉次
     昭和二十年十一月
     沖縄本島収容所において元海上挺進第三戦隊長
     赤松嘉次
(2)編集のことば 谷本小次郎
     昭和四十五年八月十五日
     元海上挺進第三戦隊本部付
     谷本小次郎
(3)無題 斉藤義雄
     昭和四十五年六月十八日
     元海上挺進戦隊教育隊長 
     斉藤義雄
(4)降伏文書
(5)(降伏勧告書) 軍情報隊長
     昭和二十年八月二十一日
     軍情報隊長
     大佐 塚本保次
(6)(海上挺進第三戦隊の教育と編成)
(7)陣中日誌 海上挺進第三戦隊(上) 昭和19年8月25日から昭和20年3月まで
(8)陣中日誌 海上挺進第三戦隊(中) 昭和20年4月から昭和20年6月まで
(9)陣中日誌 海上挺進第三戦隊(下) 昭和20年7月から昭和21年1月10日まで
(10)二十五周忌慰霊祭弔辞 赤松嘉次
     昭和四十五年三月二十八日
     元海上挺進第三戦隊長
     赤松嘉次
(11)海上挺進戦隊顕彰之記 斉藤義雄
     昭和四十二年十二月三日
     元教育隊長 斉藤義雄


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