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第4・5(3) 援護法の適用問題について

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沖縄集団自決訴訟裁判大阪地裁判決
事実及び理由
第4 当裁判所の判断
第4・5 争点4および5(真実性及び真実相当性)について

第4・5(3) 援護法の適用問題について




ア(まず援護法の適用問題について判断する)*


原告らは,梅澤命令説及び赤松命令説が集団自決について援護法の適用を受けるためのねつ造であったと主張する。そして,(2)で指摘したとおり,座間味島,渡嘉敷島における集団自決に関しては,多数の諸文献,証言等が存するところ,原,被告らにおいては,その信用性等を争う諸文献等が存する。そして,原告の諸文献等の信用性批判の根幹に援護法の適用問題があるので,集団自決に関する諸文献等の信用性の判断に先立ち,まず援護法の適用問題について判断する。

イ(援護法の適用経緯について)*


援護法が,軍人軍属等の公務上の負傷若しくは疾病又は死亡に関し,国家補償の精神に基づき,軍人軍属等であつた者又はこれらの者の遺族を援護することを目的して制定された法律であり,昭和27年4月30日に公布されたことは,当裁判所に顕著であり,この当裁判所に顕著な事実に,証拠(甲B51,乙16,32,35の1及び2,36ないし38,39の1ないし5,47の1及び2,95並びに96)を併せ検討すれば,援護法の沖縄に対する適用経緯等について,次の事実が認められる。

(ア)(援護法の制定と交付)*

援護法は,軍人軍属等の公務上の負傷若しくは疾病又は死亡に関し,国家補償の精神に基づき,軍人軍属等であつた者又はこれらの者の遺族を援護することを目的して制定された法律であり,昭和27年4月30日に公布された。

(イ)(南西諸島への適用)*

沖縄は米軍の占領下にあり,日本法を直ちに適用することができなかったため,日本政府は,同年8月,那覇日本政府南方連絡事務所を設置した。同所と米国民政府との折衝の結果,日本政府は,昭和28年3月26日,北緯29度以南の南西諸島(琉球諸島及び大東諸島を含む。)に現住する者に対して援護法を適用する旨公表した。

他方,琉球政府においては,同年4月1日,社会局に援護課が設置され,援護事務を取り扱うこととされた。

(ウ)(適用範囲を定めるための調査と処理要綱)*

日本軍が沖縄に駐屯を開始したのは昭和19年6月ころであったが,駐屯当初,日本軍は,公共施設や民家を宿舎として使用し,軍人と住民が同居することがあった。そのほかにも,住民は,陣地構築や炊事・救護等で,軍に協力する立場にあった。また,沖縄戦は,島々を中心に前線もないままに戦闘が行われたため,軍と住民は,軍の駐屯から戦争終了まで行動を共にすることが多かった。

このような事情により,住民を戦闘参加者と戦闘協力者に区分することは容易ではなかった。この点について,馬淵新治は,
「複雑多岐な様相を帯びている沖縄戦では,戦斗協力者と有給軍属,戦斗協力者と一般軍に無関係な住民との区別を,如何なる一線で劃するか,誠に至難な問題が介在している。結局総ゆる事例について調査解明して最も明瞭なものから,逐次処理しつつ,其の範囲を縮少し,最後に左右いずれにするかの『踏み切り』をする以外にないように思われる。」としている(乙36・42頁)。

戦闘参加者の範囲を決定するため,厚生省引揚援護局援護課の職員が沖縄を訪問し,沖縄戦の実態調査を行った。沖縄県の住民は,沖縄県遺族連合会が懇談会,協議会を開催するなど,集団自決について援護法が適用されるよう強く求め,琉球政府社会局を通して厚生省に陳情する運動を行った。

以上の実態調査や要望を踏まえて,厚生省は,昭和32年7月,沖縄戦の戦闘参加者の処理要綱を決定した。この要綱によれば,戦闘参加者の対象者は,
  1. 義勇隊,
  2. 直接戦闘,
  3. 弾薬・食糧・患者等の輸送,
  4. 陣地構築,
  5. 炊事・救護等の雑役,
  6. 食糧供出,
  7. 四散部隊への協力,
  8. 壕の提供,
  9. 職域(県庁職員・報道関係者),
  10. 区村長としての協力,
  11. 海上脱出者の刳舟輸送,
  12. 特殊技術者(鍛冶工・大工等),
  13. 馬糧蒐集,
  14. 飛行場破壊,
  15. 集団自決,
  16. 道案内,
  17. 遊撃戦協力,
  18. スパイ嫌疑による斬殺,
  19. 漁撈勤務,
  20. 勤労奉仕作業
の20種類に区分され,軍に協力した者が広く戦闘参加者に該当することとされた。その結果,約9万4000人と推定されている沖縄戦における軍人軍属以外の一般県民の戦没者のうち,約5万5200人余りが戦闘参加者として処遇された。

集団自決が戦闘参加者に該当するかの判断に当たっては,隊長の命令によるものか否かは,重要な考慮要素とされたものの,要件ではなく,隊長の命令がなくても戦闘参加者に該当すると認定されたものもあった。

(エ)(座間味村と渡嘉敷村における申請から認定まで)*

加えて,座間味村の援助法の申請は15次にわたり,申請から認定まで最短で3週間,平均3か月で補償対象との判断が下された。渡嘉敷村役場で援護担当であった小嶺幸信は,平成19年1月15日朝刊に掲載された沖縄タイムスの取材に対し,
「『集団自決』の犠牲者を申請するとき,特に認定が難しかったという記憶はない。」
と語った。元琉球政府の社会局援護課の職員であった金城見好も,同じ取材に答えて,
「二,三カ月後の認定は早い。平均的には三カ月六カ月かかっていた」

「慶良間諸島は,沖縄戦の最初の上陸地という特別な地域だった。当初から戦闘状況が分かっており,住民を『準軍属』として処遇することがはっきりしていた。」
と説明した。


ウ(隊長命令説は援護法以前から)*


前記認定事実によれば,昭和27年4月30日に公布された援護法が米軍の占領下にあった沖縄に適用されることとなったのは昭和28年3月26日であること,その後,琉球政府社会局に援護課が設置され,沖縄戦の実態調査が行われたこと,集団自決が戦闘参加者に該当することが決定されたのは昭和32年であること,隊長の命令がなくても戦闘参加者に該当すると認定された自決の例もあったことが認められ,また,前記(2)ア(ア)で認定した事実並びに証拠(乙2,35の1及び2)によれば,援護法が公布された昭和27年4月30日より以前の昭和25年に発行された「鉄の暴風」に,原告梅澤及び赤松大尉が住民に自決命令を出した旨の記述があること,昭和20年に作成された米軍の「慶良間列島作戦報告書」には,
「尋問された民間人たちは,3月21日に,日本兵が,慶留間の島民に対して,山中に隠れ,米軍が上陸してきたときは自決せよと命じたとくり返し語っている」
との記述があり,座間味村の状況について,
「明らかに,民間人たちは捕らわれないために自決するように指導されていた」との記述があること(この林教授の訳について原告が疑義を呈しているけれども,後記第4・5(4)エのとおり,原告らの主張するとおりに「慶良間列島作戦報告書」の該当部分を訳したとしても,軍が住民に自決を勧めていた事実は十分に認められる。)が認められる。

これらの事実に照らすと,梅澤命令説及び赤松命令説は,沖縄において援護法の適用が意識される以前から存在していたことが認められるから,援護法適用のために捏造されたものであるとする主張には疑問が生ずる。また,前記のとおり,隊長の命令がなくても戦闘参加者に該当すると認定された自決の例もあったことが認められるから,梅澤命令説及び赤松命令説を捏造する必要があったのか直ちには肯定し難い。


エ(照屋昇雄の供述について)*


(ア)(供述の内容)*

ところで,前記のとおり,昭和20年代後半から琉球政府社会局援護課に勤務していたとする照屋昇雄は,渡嘉敷島での聞き取り調査について,
「1週間ほど滞在し,100人以上から話を聞いた」
ものの,
「軍命令とする住民は一人もいなかった」
と語ったとし,赤松大尉に
「命令を出したことにしてほしい」
と依頼して同意を得た上で,遺族たちに援護法を適用するため,軍による命令ということにし,自分たちで書類を作り,その書類を当時の厚生省に提出したとの趣旨を語ったとされる(甲B35及び38)。

(イ)(経歴からの疑問)*

しかしながら,証拠(乙56の1及び2,57の1及び2,58並びに59)によれば,照屋昇雄は,昭和30年12月に三級民生管理職として琉球政府に採用され,中部社会福祉事務所の社会福祉主事として勤務し,昭和31年10月1日に南部福祉事務所に配置換えとなり,昭和33年2月15日に社会局福祉課に配置換えとなっていること,照屋昇雄が社会局援護課に在籍していたのは昭和33年10月であったことが認められ,これらの事実に照らすと,照屋昇雄がこれに先立ち昭和29年10月19日以降援護事務の嘱託職員となっていたことを示す証拠(甲B63ないし65)を踏まえても,昭和20年代後半から琉球政府社会局援護課に勤務していたとする照屋昇雄に関する産経新聞の記事や正論の記事(甲B35及び38)には疑問がある。

(ウ)(問題文書の不存在)*

証拠(乙60及び61)によれば,本訴の被告ら代理人である近藤卓司弁護士は,平成18年12月27日付け行政文書開示請求書により,厚生労働大臣に対し,前記産経新聞に掲載された「沖縄県渡嘉敷村の集団自決について,戦傷病者戦没者遺族等援護法を適用するために,照屋昇雄氏らが作成して厚生省に提出したとする故赤松元大尉が自決を命じたとする書類」の開示を求めたが,厚生労働大臣は,平成19年1月24日付け行政文書不開示決定通知書で
「開示請求に係る文書はこれを保有していないため不開示とした。」
との理由で,当該文書の不開示の通知をしたことが認められる。したがって,この点でも照屋昇雄に関する産経新聞の記事や正論の記事(甲B35及び38)には疑問がある。


オ(宮村幸延「証言」について)*


(ア)(「証言」の記述)*

盛秀助役の弟である宮村幸延が作成したとされる昭和62年3月28日付け「証言」と題する親書(甲B8)には、
「昭和二十年三月二六日の集団自決は梅澤部隊長の命令ではなく当時兵事主任(*兼)村役場助役の盛秀の命令で行なわれた。之は弟の宮村幸延が遺族補償のためやむえ得えず隊長命として申請した、ためのものであります   右 当時援護係 宮村幸延  」
との記載がある。

(イ)(経緯から真意かどうかの疑問)*

しかしながら,宮村幸延は,
「別紙証言書は,私し(宮村幸延)が書いた文面でわありません」
との書面(乙17)を残しているほか,証拠(甲B5,33,85,乙18,41,宮城証人及び原告梅澤本人)によれば,昭和62年3月26日の座間味村の慰霊祭に出席するために座間味島を訪問した原告梅澤は宮村幸延の経営する旅館に宿泊したこと,宮村幸延は,原告梅澤から,昭和62年3月26日,
「この紙に印鑑を押してくれ。これは公表するものではなく,家内に見せるためだけだ。」
と迫られたが,これを拒否したこと,同月27日,原告梅澤が同行した2人の男が宮村幸延に泡盛を飲ませ,宮村幸延は泥酔状態となったこと,その際,原告梅澤は,宮村幸延に対し,自らが作成した
「昭和二十年三月二十六日よりの集団自決は梅澤部隊長の命令ではなく助役盛秀の命令であった。之は遺族救済の補償申請の為止むを得ず役場当局がとった手段です。右証言します。昭和六十二年三月二十八日元座間味村役場事務局長宮村幸延」
と記載された文書(甲B85)を示したこと,宮村幸延は,これを真似て前記昭和62年3月28日付け「証言」と題する親書(甲B8)を作成したことが,それぞれ認められる。

こうした事実によれば,宮村幸延の昭和62年3月28日付け「証言」と題する親書(甲b8)が,その真意を表しているのかは疑問である。

(ウ)(証言間で異なる梅澤証言は措信しがたい)*

原告梅澤は,その陳述書(甲B33)で,宮村幸延が前記「証言」と題する親書(甲B8)を,その意思で作成したかのように記載する。そして, 原告梅澤の陳述書(甲B33)では,
「私は宮村幸延氏に,是非とも今仰った内容を一筆書いて頂きたいとお願いした。宮村幸延氏はどのように書いたら良いでしょうかと尋ねられたので,私は,お任せします,ただ,隊長命令がなかったことだけははっきりするようお願いしますとお答えしました。」

「大手の清水建設に勤務され,その後厚生省との折衝等の戦後補償業務にも携わっていた経歴をお持ちの宮村幸延氏は,私の目の前で,一言々々慎重に『証言』(甲B8)をお書きになりました。」
と記載されている。

しかし,そのような作成状況であれば,前記「証言」と題する親書(甲B8)と酷似する文書(甲B85)が存すること自体不自然で,原告梅澤の陳述書(甲B33)は,この部分で措信し難いし,原告梅澤が沖縄タイムスの新川明に前記「証言」と題する親書(甲B8)の作成状況として語った内容(乙43の1及び2・5頁)とも異なり,措信し難い。すなわち,原告梅澤は,新川明に対しては,
「今度,忠魂碑を,部下の切り込んだやつの忠魂碑を建てるために今度行った。その時に聞いたら,彼はまあ,酔ってないとは言いませんが,彼がそういう風に私に
『本当に梅澤さん,ありがとうございました。申し訳ございません』
とこうやってね,手をこうやってね,謝りながら書いたんですよ。
『一筆書いてくれんか』
って。
『いやー書くのは苦手だけれどもなあ』
と。
『だってあんたは役場におった人でいろいろ文書も書いたろうと。わかるだろう』
と。
『どういうふうな書き出しがいいでしょうか』
と言うから,
『そうか』
と,
『書き出しはこれぐらいのことから書いたらどうですか』
と私は2,3行鉛筆で書いてあげました。そしたら彼は
『あ,分かった分かった,もういい。あとは私が書く』
と言って,全然私が書いたのと違う文章を彼が書いてああいう文書をつくったわけです。まあ,よく聞いてくださいよ。それで結局私は
『ありがとう』
と。
『ついでに判を押してもらえたらなあ』
と言ったら,彼は商売しておるから店の事務所の机の上から判を持ってきて押して
『これでいいですか』
と。
『ありがとう』
と。
『これはしかし梅澤さん,公表せんでほしい』
と言った。
『公表せんと約束してくれと』
と。私はそれについては
『これは私にとっては大事なもんだと。家族や親戚,知人には見せると。しかし公表ということについては,一遍私も考えてみよう』
と。公表しないなんて私は言っておりませんよ。やっぱりこれはですね,沖縄の人に公表したら大変だろうけれども,内地の人に見せるぐらいは,しらせたいというのが私の気持ちだから。そういうふうなことで別れた。」

「あの人はね,まあ言うたらやね,毎日,朝起きてから寝るまで酒を続けています。」
と語っており,この新川明に語った作成状況と原告梅澤の陳述書(甲B33)の前記記載内容は異なっており,原告梅澤の陳述書(甲B33)の記載に疑問を抱かせる(なお,原告梅澤の陳述書(甲B33)には,沖縄タイムスの新川明との対談の経緯等についての記載もあるところ,この陳述書(甲B33)が被告らからの反論を踏まえて検討して書かれたものであるにもかかわらず(同1頁冒頭),前記新川明との対談の経緯等は,乙第43号証の1及び2に照らして措信しがたく,この陳述書(甲B33)全体の信用性を減殺せしめる。)。

また,前記のとおり,証拠(乙43の1及び2)によれば,原告梅澤が沖縄タイムスの新川明に語った前記「証言」と題する親書(甲B8)の作成状況では,宮村幸延がこれを酔余作成したことを認めている(乙43の2・5頁)。

(エ)(宮村幸延の集団自決時不在と座間味村の回答)*

そして,原告梅澤が沖縄タイムスの新川明との会談で認めていたとおり(乙43の1及び2),宮村幸延は,座間味島で集団自決が発生した際,座間味島にいなかったのであって,前記「証言」と題する親書(甲B8)にあるように,
「昭和20年3月26日の集団自決は梅澤部隊長の命令ではなく当時兵事主任(兼)村役場助役の盛秀の命令で行われた。」
と語れる立場になかったことは明らかで,この点でも前記「証言」と題する親書(甲B8)の記載内容には疑問がある。

沖縄タイムスが,昭和63年11月3日,座間味村に対し,座間味村における集団自決についての認識を問うたところ(乙20),座間味村長宮里正太郎は,同月18日付けの回答書(乙21の1)で回答したことは,第4・5(2)ア(ア)mに記載したとおりである。座間味村長宮里正太郎は,前記回答書(乙21の1)で
「宮村幸延氏も戦争当時座間味村に在住しておらず,本土の山口県で軍務にあった。」
として,その記載に疑義を呈するとともに,
「遺族補償のため玉砕命令を作為した事実はない。遺族補償請求申請は生き残った者の証言に基づき作成し,又村長の責任によって申請したもので一人の援護主任が自分勝手に作成できるものではな」い,「当時の援護主任は戦争当時座間味村に住んでなく,住んでいない人がどうして勝手な書類作成が出来るのでしょうか。」
とも記載している。

(オ)(まとめ)*

こうした事実に照らして考えると、宮村幸延が作成したとされる昭和62年3月28日付け「証言」と題する親書(甲B8)の記載内容は、
「昭和20年3月26日の集団自決は梅澤部隊長の命令ではなく当時兵事主任(*兼)村役場助役の盛秀の命令で行われた。」
との部分も含めて措信しがたく,併せて,これに関連する原告梅澤の陳述書(甲B33)も措信し難い。

カ(「母の遺したもの」について)*


(ア)(援護法適用に配慮して手記を書いたという趣旨の記載)*

「母の遺したもの」には,第4・5(2)ア(イ)eのとおり,「沖縄敗戦秘録-悲劇の座間味島」に掲載された初枝の手記の原告梅澤の集団自決命令について,援護法の適用を求め,その適用を受けていた住民,遺族等に配慮して,「座間味戦記」の記載を引用したとの趣旨の記載がある。

(イ)(初枝が「捏造」を認めたわけではない)*

しかしながら,第4・5(2)ア(イ)eに引用した「母の遺したもの」の記載を子細に検討すれば,初枝は,座間味村の住民が玉砕命令の存在を信じていたことから,援護法適用の調査に「はい,いいえ」で答えたと語るにすぎず,集団自決に援護法を適用するために原告梅澤の自決命令が不可欠であったことや,「村の長老」から虚偽の供述を強要されたことなど援護法適用のために原告梅澤の自決命令をねつ造したことを直ちに窺わせるものではない。この点,宮城証人は,その陳述書に
「隊長命令については,
『住民は隊長命令で自決したといっているが,そうか』
との質問に
『はい』
と答えたと書きましたが,それ以上に自分からは説明しなかったとのことです。」
と,「母の遺したもの」の記載の趣旨を補足している(乙63・11頁)。

(ウ)(「母の遺したもの」から「捏造」とまで認められない)*

そして,これまでに判示してきた援護法の適用についての事実からすれば,「母の遺したもの」から集団自決について援護法の適用のために梅澤命令説が捏造されたとまで認めることはできない。


キ(結論)*

以上を総合すると,沖縄において,住民が集団自決について援護法が適用されるよう強く求めていたことは認められるものの,そのために梅澤命令説及び赤松命令説が捏造されたとまで認めることはできない。


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