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山室建德帝京大学講師

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pipopipo555jp

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『平成18年度検定決定高等学校日本史教科書の訂正申請に関する意見に係る調査審議について(報告)』
平成19年12月25日
教科用図書検定調査審議会第2部会日本史小委員会
http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/kyoukasho/08011106/001.pdf
http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/1018.html


資料1 専門家からの意見聴取結果・・・資料(1)

大城将保沖縄県史編集委員

我部政男山梨学院大学教授

我部政男山梨学院大学教授(つづき)

高良倉吉琉球大学教授

秦郁彦現代史家

林博史関東学院大学教授

原剛防衛研究所戦史部客員研究員

外間守善沖縄学研究所所長



山室建德帝京大学講師


歴史的文脈の中で見るべきこと

山室建德

沖縄で起きた県民の「集団自決」は、それだけを取り出しても、歴史的な理解を得ることは難かしい。当時の日本人がいだいた「戦死観」を検討し、その文脈の中で説明しなければ、歴史教科書に記述するのは不適切であると考える。

拙著『軍神』(中公新書)で明らかにしたように、昭和期に入ると、軍人が集団で自らの命と引き替えに作戦を成功させることが、戦争において最も尊い行動だという価値規範が、一般国民の中から湧き上がってきた。昭和七年の爆弾三勇士を嚆矢とし、真珠湾攻撃の九軍神、そして戦争末期の特別攻撃隊へとつながる系譜である。物量で劣っていても、こうした世界無比の精神力を発揮すれば、戦争に勝てるというのが、当時の日本人の考え方であった。

負け戦に転ずるようになっても、決して捕虜にはならず、死ぬまで戦い抜くことが称讃された。その最初の模範を示したのは、アッツ島で玉砕し、山崎軍神部隊と呼ばれた守備隊である。たとえ勝てなくても、このような不屈の日本精神を発揮し続ければ、敵は戦意を喪失し、少しでも有利な形で戦争を終結させられるだろうと考えられたのである。のみならず、こうした戦い方そのものが日本人の美質を表しているとも解釈された。当時の新聞に載せられた識者の文章も、ほぼこうした論調で統一されている(拙著参照)。このように国論が一致していたから、特攻作戦や硫黄島戦に見られるように、多くの将兵がためらいを表に出すことなく、進んで自らの命を捧げたのである。

しかし、戦線が本土に近づくにつれて、軍人以外の住民はどうすべきかという新しい難問が生じた。この問題が初めて大きく取り上げられたのは、昭和十九年六、七月に繰り広げられたサイパン島での戦いである。サイパンは開戦前から日本が領有する島であり、この時点でも数千名の日本人島民が生活をしていた。多数の住民が外国からの侵攻に直接巻き込まれるというのは、日本にとって元寇以来の経験であった。当時の新聞を見ても、「海岸一帯は峭壁/市民の覚悟も固い協力/サイパン」(『讀賣報知』六月十七日)、「想へサイパン同胞の挺身/婦女子も敢然協力/まさに元寇の壱岐」(『朝日新聞』六月二十八日)などの見出しが並んでいる。戦争とは常に遠方で行われるものと思っていた国民にとって、女性や子どもまでが軍の作戦を助けるという戦い方は、衝撃的な新しさを持っていた。

アメリカ軍の圧倒的な兵力によってサイパン島が陥落した時、大本営はサイパン島の部隊について「全員壮烈なる戦死を遂げたるものと認む」、そして「『サイパン』島の在留邦人は終始軍に協力し凡そ戦ひ得るものは敢然戦闘に参加し概ね将兵と運命を共にせるものの如し」と発表した(七月十八日)。「全員」と「概ね」の違いはあるが、軍民が一体となって闘い、共に戦死していったと報じられている。

サイパン島民の最期については、八月七日の『タイム』の記事が、ストックホルム駐在の各新聞社特派員を通して日本に伝えられ、八月二十日前後にくわしく報じられている。たとえば『讀賣報知』昭和十九年八月二十日一面トップには、「サイパン同胞かく自決せり/悲壮絶す!敵従軍記者の筆に偲ぶ実相」「浄身・日の丸拝し/手榴弾で集団自爆/愛児抱き従容父の入水」「傷兵は自決・残りは突撃」「兵士自決の模範示す/婦女は黒髪梳つて死出の化粧」「一人一人の手に手榴弾」といった見出しが並んでいる。軍人の場合は、戦えない傷病兵は自決し、残りは突撃して戦死する(ここまではアッツ島と同じである)、民間人は傷病兵に準じて自決したことが強調されている。

「敵の特質」という表題がついた『タイム』の記事には、「われわれは日本人の戦場における自決については、何もかも知り抜いてゐるつもりでゐたが、それは誤りであつた。米海兵は、日本兵が最後の瞬間に自決することを予期してゐた。しかし誰が一体、この非戦闘員の凄惨な自決を予想したであらうか。米兵のうちには日本人の自決を思ひ止まらせようとして逆に殺されたものもある。サイパン島は多くの一般日本人が居住する島として初めて侵略された日本領土である。従つて彼等非戦闘員の自決こそ〝日本人は全民族をあげて降伏よりもむしろ死を選ぶ〟といふことを表示するものである」と書かれていたという。『毎日新聞』は、これを受けて、「サイパン同胞の最期こそは正に一億国民の胸底に徹して銘すべき大和魂の精華であり、戦史永久の亀鑑である」と書く。『タイム』が描いた自決の情景の中から、いくつかを挙げておこう。

「一昨日から昨日あたりまで、この崖の上には幾百人の日本人の非戦闘員ー男、女、子供がゐた。それが極めて規則正しく、彼等は或は崖から飛び降り、或は崖伝ひに海岸に降りて何れも入水してしまつた」。

「海岸一帯は通り抜けられぬほど漂流死体で埋まつてゐた。[中略]四歳か五歳かの子供が、一人の日本兵の首にその小さな腕をまきつけたまゝ溺死したいぢらしい姿も見られた」。

「一ばん厳粛な儀式をやつたのは、マッピ山の断崖の直下にゐた数百人の日本人たちで、彼等は断崖上の米海兵達を見ると、みんな寄り集まつて突如衣類をぬぎ捨てて海水に身を浄め、心身ともに新たになつて新しい着物に着換へ、平らかな岩の上に大きな日章旗を拡げた。一同は静かに遥拝した。そして、指揮者と覚しきものが一同に手榴弾を分配した。一つ二つと安全栓は抜かれた。かくして日本人の一団は自決して果てた」。

「或る日、米海兵隊員は約五十人の日本人の一団を見た。そのうちには数人のいたいけな子供がゐて、互ひに手榴弾を投げ合つたりおもちゃにしたりしてゐた。てうど野球のウォーミングアップをやる時のやうに。すると突如六人の日本兵が洞穴の中から飛び出した(この洞穴の中から彼等は米海兵を狙撃してゐたのだ)。兵士たちはキツとなつて子供の前に立ちはだかり、彼等に教へるかの如く自決し果てた。これを見て他の非戦闘員たちも同じ行動をとつた」(以上『毎日新聞』八月二十日)。

日本兵の首に腕をまきつけて死んでいた子どもや最後の例は、軍人が「強制」した、少なくとも「干与」した民間人の自決になるのかもしれない。しかし、当時の新聞記事の論調は、敗北した時には日本人ならば誰でも自決すべきであるというものであり、将兵と一般人との間に大きな違いがあるとは意識していなかった。実態がどうであったかは別にして、このように日本国内では、サイパンでの敗北とともに相当数の日本人住民が自決したことが注目を浴びていた。

高村光太郎は「この崇高な同胞の最期が意味する日本精神の純粋無比な伝統の強さに、今更のやうにわれわれ自身の内にも亦かくれてゐるであらう奪ふべからざる高き古代の穢無き心を、深く頼み思はずにはゐられない。[中略]かかる古代の心を堅持してゐる唯一のわれわれ民族こそ、いはゆる文明によつて低下した世界の野卑な生活を救ふのである」という(『朝日新聞』八月二十三日)。高村にとって民間人の自決は、世界を救いうる日本古来の精神の顕現であった。「記事を読んで私はその夜眠ることが出来なかつた」という林芙美子は、岩頭に立つ女性を思い浮かべながら、「サイパンで散つた同胞女性の愛国の血を、いまこそ私達はパッと体ちゆうに浴びた」と語る。それゆえ、「私も死ぬときが来たら立派に死にたいと思ふ」と決意を固める。そして、「上の方からこの戦争にはどうしたらよいと教へられることも尽きたやうに思ふ。国民の一人一人がいまこそ自覚して素朴に至純に前進してゆく。その力こそ巨きくこりかたまつて勝利の火の玉となり得るのだ。このごろの報道はすべて私達国民へ真を伝へてくれかへつて反撥力が湧き、何とかこの大国難を切り開きたいと必死に願つてゐる」という。日本が苦戦を強いられていることを包み隠さず知らされたために、かえって国民の戦う信念は強まった。それは、政府による指導教化以上の効果を持ったと林は述べている。「街や村にはもう何のポスターも宣伝文も不要であらう。私達は私達のいま立つてゐる国を全力を挙げて守り抜かなければならない」(同前)のである。

軍人が文字通りの死闘を繰り広げる中で、民間人だけがおめおめと敵に投降するなどあり得ない、日本人全体が一丸となって、決して屈服しないことを見せつけるべきだという考えが、日本社会に拡がっていたことが分かる。藤田嗣治は、「サイパン島同胞臣節を全うす」と題して、崖から身を投ずる直前の群像を描いた戦争画を、昭和二十年に制作している。前線が後退して、銃後だった生活領域に入り込んでくるとともに、一般人にも軍人と同じ覚悟が求められるようになっていた。

こうした価値観が広く共有された状態で、日本は沖縄戦に突入した。当時の新聞には、軍に協力して奮闘する沖縄県民の姿が描かれている。たとえば、昭和二十年六月十四日の『朝日新聞』は一面トップに、「沖縄県民の血闘に学べ/醜敵邀撃・一億特攻の魁け/わが腕、わが肉体で/父祖の地を死守/職場去らぬ女学生」という見出しで、これを報じている。そこでは、「島田知事は、まづ十五歳以上の男女全員をもつて、在郷軍人を根幹として義勇隊を編成し」と述べられ、特に女学生が看護婦として、師範学校生徒や中学生が陣地補修担当や通信伝令として、必死の活動を行っている様子が描かれている。来るべき本土決戦でも、民間人は軍によって保護される傍観者ではなく、積極的に軍の一翼を担う戦闘の支援者になるべきだというのが、沖縄戦が指し示す教訓であった。六月十二日に阿南陸相が島田県知事と県民に対して感謝の電報を送り、七月八日に太田文相が沖縄師範学校と沖縄県立第一中学校を表彰し、七月九日に安倍内相が島田知事に賞詞を授与したのは、すべて沖縄県民の際だった敢闘があったためである。

しかし、日本人の自決によってサイパンでの戦闘が終わったと、日本国内では認識されたのに対して、沖縄の場合は明確な結末が見えにくかった。六月二十五日に大本営は、軍が最後の敢闘をしているが「六月二十二日以降細部の状況詳かならず」、つまり連絡の取れない状態となったと発表し、沖縄での組織的な戦いが終結したことを認めている。この発表の中に、大田少将が率いる海軍部隊が「六月十三日全員最後の斬込を敢行せり」とあり、陸軍についても「憤怒に燃える残存手兵を掲げ、驕れる敵の主力に向つて最後の攻撃を敢行せんとする前日十九日、沖縄方面最高指揮官牛島滿中将は左のごとき訣別の辞を関係方面に打電した」(『朝日新聞』六月二十六日)という新聞記事があるから、日本軍はほぼ全滅したと見られたであろう。さらに六月三十日の新聞各紙は、参謀長長勇少将と牛島中将の自刃を、サンフランシスコ放送にもとづいて報道している。

これに対して、沖縄県民がどのような運命をたどったのかについて、この前後の時期にはっきりと書かれた記事はない。右の大本営発表では、「沖縄方面戦場の我官民は、敵上陸以来島田叡知事を中核とし、挙げて軍と一体となり皇国護持の為終始敢闘せり」と言及されるにとどまっている。県民の自決に触れているのは、管見の限りでは七月七日の『讀賣報知』に載った「壮絶・沖縄の凄闘/断崖を跳ぶ島民/手榴弾自爆の兵士/太平洋戦最大敵米血の〝通行税〟/中立紙報道」というストックホルム発の記事くらいである。そこには、次のような米記者の報道が引用されている。

「自分は最近まで日本軍が居住したと思はれる或る洞穴を訪ねたが、そこには重傷の後鋭利な刃で見事に頸部を突刺して自殺してゐた日本兵の死体が、未だに横たはつてゐるのを見た。一方、日本島民には降伏の屈辱を避ける別の方法があつた。そこは不断の砲火に蔽はれ爆撃掃射、日夜砲弾によつて文字通りに寸断された急斜面であつたが、そこに密集した日本人の一群は、崖の腹背から米兵に攻め立てられ進退谷まり死に直面してゐた。彼等が崖上から跳躍して絶壁の下方に消えて行く姿が、硝煙の中に時々隠顕した。われわれはまた手榴弾の鋭い爆音をも聞いたが、それは米兵に投げられたものではなく日本兵自らの下着に押しつけられたもので、かうして日本兵数百人一団となつて自ら爆死したものもあつた」。

この記事には、崖に追い詰められた民間人が自決する光景が描かれているが、他の島民がみなこのような最期を遂げたとは想像しにくい内容である。新聞の報道ぶりから類推すれば、アメリカ軍に占領された沖縄に相当数の生存者が残ったことは、明言はされないが覆いがたい事実だったであろう。

このように、日本本土から見て、サイパンと沖縄では戦闘終結の様相が異なっていた。それは、住民のあり方の違いによるところが大きいと思われる。サイパンの日本人は島に定住してから三十年を超えることのない新参の入植者だったが、沖縄県民にとって今いる場所は先祖伝来の地である。異国の軍隊に占領されようとも、そこが自分たちをはぐくんだ郷土であることは揺るがなかった。しかも、当時の新聞が「五十万の沖縄県民」と称したように、共にいる同胞の数ははるかに多い。日本軍が敗北した瞬間に根無し草となり、そのことも一因となって「集団自決」が起きたサイパンや満洲とは異なる場所だったのである。たしかに一部で「集団自決」が起きたが、多くの沖縄県民はそうした道をとらなかったことの方が、日本人の戦死観の変遷を考える上では重要である。

沖縄方面根拠地隊司令官であった大田實海軍少将は、自決する直前に、沖縄県民がいかに献身的な努力をしたかを述べた上で、「沖縄県民斯ク戦ヘリ、県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」と結んだ電文を本土に送っている。今日では、地上戦が行われたのが沖縄だけだったことと結びつけて、本土とは異なる特別の配慮を与えてほしいという意味に解釈されることが多い。しかし、大田がこの電報を送った時点では、本土決戦へ突入する可能性が高いと見られていた。仮に大田が沖縄戦の惨状を見て、これ以上の地上戦はやるべきではないと判断したとしても、それを本土の上層部に向かって発信できる状況にはなかった。したがって、この文面は、自分たち軍人は死んでゆくが、沖縄県民は米軍が支配する地で生き残ることになるだろう、だが、彼らはよく戦ったのだから、決して裏切り者扱いしないでほしいと願ったと解釈した方が良いように思う。どう解釈するにせよ、沖縄戦を戦った軍の指導部は、目の前にいる住民を道連れにして、死んでゆこうとは考えていなかった。サイパン玉砕報道で示されたような規範が、沖縄では実行できないことに気づいていた。

たしかに軍人は、特別攻撃や自決などによって、戦いに命をかけた。学生時代に病気入院した際に、沖縄で一兵卒として戦った方と同室になったことがある。その方の話では、米軍が攻めてくる前の沖縄は天国だったが、戦いは凄慘だった、そして最後に自決しようとして、横になって小銃をあごに当て、足の指で引き金を引いたが急所をそれて生き延びたと述懐して、その傷跡を見せてくれた(アッツ島などの場合とは異なり、沖縄戦では敵に突撃して死ぬのではなく、自決する事例が多くなったようである)。このように、沖縄でも兵士にいたるまで、決死の覚悟は徹底していた。しかし、一般国民までが敵に屈することなく死んでゆくべきだという理念に、大きなひびが入ったという点で、沖縄戦が持つ意味は大きい。日本本土が戦場となった場合、国民のすべてが、高村光太郎の言葉を借りれば「奪ふべからざる高き古代の穢無き心」に満たされて死んでいくわけではないだろうことを、沖縄戦があらかじめ示したのである。

沖縄喪失後は、本土住民の生死が焦点となった。原爆投下に至るアメリカ軍の無差別爆撃によって、その生存が危機に瀕したからである。この場合も、「一億総特攻」という信念によって本土で地上戦を続ける道もあったが、一般国民が生き延びる方を、日本政府は選択したのである。二ヶ月前の沖縄戦の経験が、そうした決断を支える一因となった可能性は大きいと思われる。そして、天皇が初めてラジオを通して自らの声で戦争の終結を伝えることで、国民は公然と戦いを止め生き永らえる名分を得られた。しかしそこには、「生きて虜囚の辱を受けず」と信じて死んでいった人々への裏切りが含まれているといえなくもない。今日から見てどれほど愚かしい価値観に思えたとしても、それに命を捧げた人々を軽蔑したり非難する権利は、敗戦後へ生き延びた日本人とその末裔にはないだろう。

以上は、日本人が史上初めて「敗北」を身をもって学んだ過程であった。昭和二十年八月十五日以前の日本人にとって、敵に屈服するのは他国でしか起こりえない事象であった。それゆえ、戦争のあらゆる局面で「勝利を、然らずんば死を」と行動すべきだと思い込んでいた。たくさんの勝ち負けを経験してきたために、万策尽きれば捕虜になることは恥辱ではないという文化を育てた欧米とは異なり、まだ若かった日本はこうしたナイーブな感覚の中で生きていた。そう固く信じていた日本人が、血みどろになって沖縄で戦い、敗戦を経験し、その結果今日のような価値観を手に入れた、あるいは過去の信念を失ったのである。

また、軍人と非戦闘員との区分についても、当時と今日では大きく考え方が異なる。戦中期の日本人にとって、軍と国民とは文字通り一体であるべきだった。もちろん、現実の戦闘では、大部分の民間人は役に立たないだろう。しかし、戦いが敗北に終われば共に死んでゆくもの同士だという意識を、強く分かち合っていたに違いない。しかも、どちらにとっても戦う最大の目的は、日本のためにいかに多くの敵を打ち倒すかであって、自分たちが生き延びるためではなかった。そう信じていても、その場になれば必ずしも思い通りに行かないことを、沖縄戦が経験させたといえるだろう。

このような前後の状況を見ずに、一部の日本軍が住民に自決を強要したとだけ記述するのは、よしんばそれが事実だったとしても、適切な歴史叙述とは言い難い。「集団自決」に言及するのであれば、少なくとも日本軍将兵の「集団自決」や特別攻撃も併せて記述すべきであろう。ともに、日本人の戦死観を考える上で、欠くことのできない要因だからである。

日本史とは、われわれの祖先が良かれ悪しかれ、どのような経験を積んできたのかを学ぶことで、自らの考えを鍛え、深めるための学科である。既にある自分の思考法で過去を支配する場ではない。沖縄戦を日本史という観点から眺めれば、日本軍は沖縄県民の協力を得て、それまで平和だった沖縄の防衛をめざし、侵入してきたアメリカ軍の方が日本人に向けて情け容赦なく砲弾の雨を降らせた戦いであった。そして、日本軍が敗北したために、沖縄はアメリカ軍の戦略的拠点となって、今日に至っている。ここでの日本史の課題は、日本軍を含めた当時の日本人の思いと経験について理解を深めることに尽きる。

この一見当たり前の営みを阻むのは、やはり敗戦の後遺症のためだろう。敗戦以前と以後とを比べると、日本人の価値観は大きく変貌した。それも、まるで振り子を大きく揺らすように、あっという間に変わっている。なぜそんなことが起こりえたのかを把握するためにも、戦中期の意識を直視することは必要である。振り子の一方のふれから他方のふれを非難しても、その意味は見えてこない。それぞれのふれ方を等しく理解しなければ、振れ幅の大きさも分らないだろう。これは、たとえば同じように大きく揺れ動いた明治維新前後についても言えることである。四民平等、文明開化という明治以降の立場から、それ以前の士農工商、鎖国、キリスト教禁教を攻撃しても、江戸時代を理解することはできない。江戸時代の人々がいかなる考えからあのような仕組みを作ったかを、内在的にたどる努力をする時、初めて江戸時代の独自性が見えてくるのである。

戦中期が江戸時代と違うのは、未だに悲しみや怒りという感情の昂ぶりなしに思い返すことが困難な点にある。しかし、学問としての日本史、そして学校で教える日本史の課題は、そのような心情を煽ることではなく、その源へ知性の光を当てることである。こうなのだと決めつけてしまうのではなく、歴史には未知の部分が限りなくあるのだから、自分の認識は間違っているかもしれないと疑い続けることである。戦中期に対してそうした姿勢を貫いた時、初めて日本人の経験したかけがえのない一時期としての意味が浮かび上がってくるはずである。



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