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「沖縄戦に“神話”はない」----「ある神話の背景」反論(10)

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pipopipo555jp

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「沖縄戦に“神話”はない」(太田良博・沖縄タイムス)」連載10回目


終戦直後、日本の中尉と下士官が赤松のところに降伏勧告にきている。しかも、下士官は米軍の服装をしていた。降伏勧告にきた住民がことごとく殺された事実からすれば、相手が軍人であれば、なおさら厳格に対処すべきである。だが、赤松は降伏勧告にきた二人の軍人をおとなしく帰している。


大城訓導は民間人

また、家族に会いに行ったというだけの理由による大城訓導の処刑がある。渡嘉敷国民学校の大城徳安訓導が、島内の別の場所にいた妻にこっそり会いに行ったという理由だけで、縄でしばられて陣地に連行され、斬首(ざんしゅ)されたのである。この事件について、曽野綾子氏は、大城訓導が「招集された正規兵」(曽野氏は、防衛隊員を正規兵と解釈している)だったことをあげて、赤松の処置が「民間人」に対するものでなく、軍律により軍人に対してとられた処置(処刑)で、不当ではなかったと弁護する。

防衛隊員が「正規の軍人」であったとする解釈には同意できないが、大城訓導は、正式な防衛隊員でもなかった。防衛召集は満十七歳以上、四十五歳までの男子が対象で、武器をあたえられず、飛行場建設や陣地構築に使役され、戦場では弾丸運び、まったくの補助兵力であった。召集の時期は、昭和十九年十月から十二月までと、昭和二十年一月から三月までの二回だが、この二回の防衛召集で大城訓導は召集を受けていない。

渡嘉敷国民学校の校長だった宇久眞成氏から私が直接きいた話によると、大城訓導は、当時、教頭であり、年齢も四十九歳、防衛召集年齢の上限(四十五歳)をこえていた。(小学校教員は、普通、防衛召集の対象からはずされていた)。その大城訓導を、赤松大尉が勝手に防衛隊員にしたらしい。これは、甚だしい越権行為であった。召集は国家行為であるからである。大城訓導は、殺されるまで「民間人」であったのだ。

赤松批判で私兵に

なぜ、赤松は勝手に大城訓導を防衛隊員にしたのか、そのことについて、宇久氏は、大城訓導があからさまに赤松隊のやりかたを批判したことに原因があったのだと説明した。赤松批判が知れて強制的に赤松大尉個人の「私兵」とされたようである。大城訓導は、親子ほど年齢差のある若い兵隊たちから相当いじめられたらしく、苦役と精神的苦痛にたえられなかったが、妊娠中の妻(おなじく教員)のことが心配で、無断で妻に会いに行き、陣地を勝手に離れたとして殺されたのである。 

戦争体験への暴挙

ところが、赤松隊から隊員である二人の兵隊が逃亡するという事件があった。このとき、部下の兵隊二人の逃亡を赤松は見逃している(『ある神話の背景』230ページ)。この兵隊逃亡に対して、赤松大尉は「去る者を追うのはよそう」と言った、というのである。部下の兵(身内)に対しては、なんという「寛大な処置」であろう。指揮官が部下兵の逃亡を見逃すのは「逃亡幇助」であって、軍律上、許せない行為である。兵隊の「敵前逃亡」は陸軍刑法では死刑である。

住民処刑は、たいてい「通敵のおそれがある」という理由によってなされている。住民をスパイ視していたわけだ。たとえ住民をスパイとして利用することにしても、敵である米軍よりも味方である赤松隊のほうが、言葉も通じるし、同国民でもあるという立場からみて、はるかに有利な条件を備えていたはずで、住民は、敵情をさぐらせるのに好都合で、その意味では、補助戦力に転化できたはずだが、それはあくまで赤松隊に敵攻撃の意志があった場合にかぎられる。その意志がなければ、住民は、逆に、陣地の所在を敵に通報するのではないかという危惧の対象にしかならない。赤松隊は、まさに、その危惧の目で住民を見ていたのである。

この事実は、赤松が攻撃の意志を全く失い、自己陣地の暴露と敵の攻撃だけを極度に恐れていたことを雄弁に物語っている。古波蔵樽(たる)という男が家族全員を失い、悲嘆にくれて山中をさまよっているところを、スパイの恐れがあると言って、高橋伍長が軍刀で斬殺したという事件もある。

沖縄戦に「神話」などというものはない。沖縄戦は今日的な出来事であるし、沖縄にいたすべての住民が自分の目で見て体験したことである。『鉄の暴風』は、まさにこの体験の記録である。曽野氏の『ある神話の背景』は、沖縄住民の戦争体験の重さを甘くみた暴挙であり、とくに住民処刑についての全面的な赤松弁護はまったく軽率である。

(おわり)


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