覚悟 by 151さん



数時間ぶりに研究室の扉に手を掛けるのと、中から電話の呼び出し音が鳴り響くのはほぼ同時だった。
俺は小さく息を吐き、科技大で唯一安らげる場へと足を踏み入れる。

この数週間俺は多忙を極めていた。
近く開かれる学会での論文の制作、また、運悪くそれに重なってしまった試験の問題作成。
加えて、朝からぎっしり詰まった学生達への講義。
試験前ということもあり、暇ができたと思えば勉強熱心な学生に質問責めに合う…まぁ、丸毛典子くんのような生徒ならそれも苦ではないのだが。
とにかく、どこぞの誰かは俺のことを暇人だと責め立てるが、少なくともここ何日かは睡眠もまともにとれない多事多端ぶりだった。

そして今、やっと休めると研究室に戻ったところでこの電話だ。
俺は正直辟易していた。
持っていた書類を机に投げやり、けたたましい音を立てる機械に手を伸ばす。
「………上田ですが」
受話器を耳に当て発した声には、存分に機嫌の悪さが滲み出ていた。
電話先も相手もそれを察したのか、一瞬の間が生じる。
「……あの、山田です」

この声を聞いたときの俺の気持ちを何と表現したらいいだろう。
まず驚き、焦り、力が抜け、ガクリと椅子に腰を落とした。
今まで体にのし掛かっていた重圧がスッと取れ、安心感や幸福感といったものに包まれる。
そして何よりも、嬉しかった。
彼女は、声だけで、俺を幸せにしてくれるとても大切な存在だと思い知らされる。
誰も見てはいないのだが、にやけそうになる口元を咄嗟に押さえた。

「…えっと、今時間大丈夫ですか?」
先の俺の声色に恐縮したのか、いささか緊張した声が耳に響く。
「あ、あぁ……久しぶりだな」
緊張させてしまった謝罪の意味も込め、努めて柔らかい声で話しかけた。



「そう…ですね。………寂しかったか?」
彼女も俺の意を介したのか、いつも通りふざけた調子で返してきた。
「いや?忙しくて君の事などすっかり忘れていた」
俺も合わせていつも通りに返す。
もちろん返事の内容は全くのでたらめだが。
「な…!?……き、奇遇ですね。私も手品のショーが忙しくて、
上田さんのことなんかこれっぽっちも思い出す暇なんかありませんでした!」
尖った声に、笑みがこぼれる。
「そうか?じゃあ何で今電話掛けてきたんだよ」
「そっ!それは、その、ほんのちょこっとだけ時間ができたから…」

愛しい声に耳を傾けながら、突然の電話の理由を思案する。
はっきり言って奈緒子からの電話はかなり珍しい。
緊急の用件でもなさそうだし、やはり憎まれ口を叩いていても、寂しかったのだろうか。
それほど奈緒子を放っておいてしまった事を内心すまなく思う。
だが、相手に会いたかったという気持ちでは存分に勝つ自信はあった。

「……だから、今もお客さん待たせて……って上田さん、聞いてます?おい!上…」
「寂しかった」
「えっ…」
「俺は、君に会えなくて寂しかった。連絡しなくて悪かったな」
電話だと、俺も幾分か素直になれるらしい。
今の奈緒子の表情を想像すると吹き出しそうだ。
「……わ、私…も……」
そこで口ごもる奈緒子が可愛くて仕方がない。
一度開き直った俺は、どうもかなり重症のようだ。その先を聞かずとも十分に満足できるのだから。

「…あの、実は今、大学の近くまで来てるんです。今からそっちに行ってもいいですか?」
その言葉に少し驚いたが、嬉しさの方が多いに勝った。
「あぁ、もちろん。だが珍しいな…君が突然大学に来るなんて」
そう言いつつ前にも同じようなことがあった事を思い出す。



『あなたに…逢えてよかった』
そう言って俺の元を去った奈緒子を、俺は黒門島まで迎えにいった。
思えば、この時から俺は奈緒子に惹かれていたのかもしれない。

「えへへ…実は報告したいことがあって」
だが今回はあの時と違い、喜ばしい訪問だということが奈緒子の声から明らかだ。
「報告?」
「そう。上田!覚悟しとけよ!」
「覚悟?」
「じゃ!」
「あ、ちょっと待った、待たせてるお客さんはいいのか…?」
その質問への返事は荒々しく切れる受話器の音だった。


受話器を置き、椅子に深く腰掛けたまま、無意味に回ってみる。
久しぶりに奈緒子と会えることが嬉しくて落ち着かないのだと自分でも分かった。
奈緒子を待つ間も、俺は電話で聞いた"報告"の意味する所を考えていた。
…報告、声色から察するに嬉しい報告、そしてそれは俺が覚悟しなければならない内容。
「……なんじゃそりゃ」
さっぱり検討が付かず首を捻っていると、丁度背中を向けた瞬間に、扉が大きく開く音がした。
「!!…って、早いな!まだ一分も…」
慌てて椅子ごと体を扉の方に向け、視界に入った人物に、俺は固まった。

「……センセ、何してはるんですか?独りでクルクル回って」
「…遠心力の実験か何かですか?」
そこにいたのは異様に不自然な頭をした男と、それに付き従う自尊心の固まり男。
見慣れた刑事二人組だった。

状況に順応できず固まっている俺を余所に、刑事二人はズカズカと部屋に入り込み、悠々とソファーに腰掛ける。
「いやー、やっぱりいいですなぁ、ここは…涼し~!!」
「確かに、最近真夏日が続いて…って何普通にくつろいでるんですか!!」
慌てて立ち上がり、俺は動揺した声をあげる。



そんな俺をチラッと見ただけで、矢部さんは近くにあったファイル済の書類で顔を扇ぎ出した。
「まぁ、堅いこと言わんといて下さいよ~。センセと自分の仲じゃないですかぁ」
猫なで声でそんな事を言われても、はいそうですかと納得するわけにはいかない。
「矢部さん、悪いんですがもうすぐ来客が…」
「どうせ山田でしょう?」
速攻図星を言い当てられ、一瞬口ごもる。
「…っ!…ち、違うんですよ、今日は。本当に大事な来客があるんです!!」
「え~ホントですかぁ?」
不審や不満の篭もった目で俺を見上げる矢部さんに、引きつった笑顔を向ける。
もう一人の刑事はと言えば、さっさと冷蔵庫から取り出した飲み物をコップに注いでいた。
その時、矢部さんが手に持つ書類が偶然目に留まり、俺は慌てて駆け寄りそれを取り上げた。
「ちょっ!…これは今朝やっと完成した論文で…」
団扇替わりに使われたせいで付いた皺を涙目で伸ばしながら、それを机の引き出しにしまう。
「あれ?大事なもんでした?すいませんな~」
怒鳴りつけたくなる衝動を必死に押さえつつ、穏便且つ性急に、刑事達をこの場から去らせる策を巡らせた。

「あ、そうそう…センセ、今晩お暇ですか?実はいい店見つけたんですよ~」
小指を立て、厭らしい笑みを浮かべた矢部さんが俺を見上げる。
その挙動だけでどんな店かなど一瞬で想像がついた。
「けど今ちょうど給料日前でなぁ、あ、だから金の掛からないここに涼みに来たんですけどね…」
「僕は、お金ありますけど」
「うるさいわ!!」
横やりを入れた部下を、いつものように矢部さんが一喝する。
「えっと何でしたっけ?そうそう、だからセンセも一緒に行きませんか?」
暗に金を貸せ、または驕れと言いたいらしい。
俺は小さくため息を吐き、二人がくつろぐソファーまで移動する。
「結構です。僕はそんな店には行きません」
そう言って菊池さんの手からコップを取り上げた。
「またまた~、センセもいい加減、花開かせたがいいんと違いますか?」

『花ならこの間開いた!!』
と、声を大にして言いたかったが、理性しか兼ね備えていない人間である俺がそんなわけにもいかず、矢部さんから目を逸らす。



「すみませんが、今晩は予定があって…菊池さんと行かれたらいいじゃないですか」
「僕もそんな店には行きません」
「何?!菊池、お前なぁ…」

刑事達が押し問答をしている隙に時計に目を遣る。
電話を切った時間から考えて、もういつ奈緒子が来てもおかしくない。
もしここで奈緒子と刑事達がはち合わせたらどうなる?
俺の嘘が明るみになるばかりか、奈緒子との二人だけの時間が台無しになるのは目に見えている。
急がなければ…!!

「もうええわ!石原と行くから!…あいつ金持っとるかな?」
「矢部さん!もう本当に時間がないので今日の所は…」
「あー!そうやった!石原で思い出しました!!」
矢部さんの大きな声で再三の願いもまたかき消され、俺はガクリと肩を落とす。
「……何ですか?」
「実は面白い報告があるんですわ」
「"報告"?」
その言葉に俺は顔を上げた。
「山田の話なんですけどね」
「山田の?」
話に食い付いてきた俺に矢部さんが満足そうに微笑む。
「お!センセ、気になりますか~?びっくりしますよ~」
今から聞く話の内容は先に奈緒子が言っていた"報告"の内容と同一のものなのだろうか。
興味の無かった矢部さんの話も、奈緒子の事となるやいなや、俺の中で鮮明な色を持つ。
「あ、でも、もしかしたら、ちょっとショックかもしれませんな~」
そう言う矢部さんのにやけ顔に焦燥が募る。
「矢部さん!早く教えて下さい!」
「え~実はですね、山田のやつ…なんと…」
屈んだ俺の顔に矢部さんの顔が近づいてくる。
「男!!…ができたらしんですわ!!」
「何?!おと………え?男?」



…一瞬驚いた。
が、それは、もしかせずとも俺のことじゃないのか?
俺は脱力して矢部さんから顔を離した。

矢部さんはまだ俺の興味を惹きつけているものだと思いこみ、興奮したように話を続ける。
「何か最近山田の様子がおかしいってあのボロアパートの大家さんから聞きましてな、そりゃ警察として調べなあかん思て、
事務仕事で暇してる石原に調べさせたんですわ。そしたらもう、怪しい証拠が出るわ出るわ…」
日本の公務員は余程暇らしい。いや、こう言っては真面目に働く公務員に失礼か。
呆れつつも話の続きを待つ。

矢部さんは懐から手帳を取り出し、そこに書かれているのだろう、山田奈緒子恋人発覚事件の証拠を読みあげ始めた。
「えーと、まず、明るくなった。部屋から聞こえる変な鼻歌や突然のスキップがその根拠。次に、優しくなった。
これはジャーミー君…あの外人さんやね、への寛容な態度などから明らかやそうです。そして、お洒落になった。
箪笥の奥から普段は着ないような服を取り出して着てみてたらしいですわ」
「石原さん…覗いたのか…」
複雑な思いを抱えて小さく呟く。おそらくその思いの大半は嫉妬なのだが…。
「あ~、もう石原字汚いわ!!次いきますよ~、えっと、楽しそうにしとったのに突然暗くなることがある。
電話の前で三時間ほど体育座り、その後涙ぐむ。…何やこれ、訳わからんな」
……いや。
いいや、俺には訳分かる。
そうか、たとえ少ししか話せなくても電話するべきだったな。
俺はただ、声を聞いたら会いたい気持ちが我慢できなくなると思って…。
あいつ、そんなに待ってたのか。俺の、電話を。そうか。………だめだ、にやける。
口元を押さえつつ再び意識を話に集中させる。

「それから…あ~こりゃ決定的やな。綺麗になった。まぁ…元々あいつ、顔だけはよかったけど、色気が出てきたらしいですわ。
この二週間、家とバイト先の往復中だけで8回!男に声掛けられてたそうですわ」
「!!…な!そ、それで…山田はどうしたんですか?!」
俺の剣幕に矢部さんは驚いたような意外そうな顔をして、もう一度手帳を見た。
「さぁ?それは書いてないなぁ」
弛んでいた顔の筋肉が一気に引き締まる。ぜひ、あとで奈緒子に問いつめなければ。



そういえば、奈緒子の言っていた"報告"は矢部さんのものとは違うみたいだ。
じゃあ一体何なんだ?奈緒子の言う報告とは。
奈緒子の口から聞けば分かることとは言え、それだけの長期間奈緒子を調べていた矢部さん、いや、石原さんか?
とにかく彼ならその内容を知っているかもしれない。
奈緒子が何を俺に言うつもりであれ、俺が先に言い当てたら驚くだろう。
最近気付いたのだが、俺は奈緒子を驚かすのが大好きらしい。
残念ながら大抵失敗に終わるのだが、今回はうまくいきそうだ。

「まだあるんですよ、これ極めつけやな!あのですね…」
「あの!話の途中ですみませんが…実は先程山田から電話があって、どうも僕に報告したいことがあるらしいんですが、
矢部さん何か見当つきませんか?」
俺の言葉に矢部さんは不思議そうに首を傾げる。
「へ?だから…それこそ、男が出来たってことちゃうんですか?」
ふっと口をつきそうになった。それだけはありえない理由が。
…俺が、その、男なんだ。

否定する理由を考えている俺に、それまで興味なさげに話を聞いていた菊池さんが助け船を出してくれた。
「それはないんじゃないですか?」
「なんで?」
菊池さんが俺をチラリと見て、矢部さんに視線を戻す。
「すこし考えれば分かることだと思いますけど。まぁ当のご本人が言いたくないのであれば僕の口からは言いませんが」
「はぁ?」
さすがと言うべきか、意外と言うべきか、菊池さんは矢部さんほど鈍感では無いらしい。
「上田教授は山田さんからどのような報告があると、お聞きになったんですか?」
矢部さんを置き去りにしたまま菊池さんと俺との会話は進む。
「あ…そうですね。察するに、喜ばしいものだとは思いますけど。あぁ、あと覚悟するようにも言われたな」
「覚悟?」
菊池さんがその言葉に反応し、しばらく考えるような表情をした後、真剣な顔で俺を見上げてきた。
矢部さんはそんな菊池さんと俺の表情を交互に見遣る。
「上田教授、統計学的に見て、女性にとっては喜ばしく、男性は覚悟を要する内容の話題はそう多くないと思います」



「本当ですか?例えばどんなものが?」
「そう、ですね…」
なぜか、菊池さんが言いにくそうに目を背け、言葉の続きを口にした。
「……妊娠、とか」

その言葉の意味を認識するのに、数秒掛かった。

ちょ、待て待て待て…頼む、待ってくれ。
計算しろ、俺。
彼女に妊娠するきっかけをそう多くは与えてない…よな?
まだ2回、いや、3回くらいか?…いや待てよ、1ラウンドを1回と数えるのか?
続けてしたりもしたしな…ちょっと待て、そもそもラウンドってなんだ?どこで区切るんだ?
まずい、混乱してきた。落ち着け、要は何回出したか…だよな?
ん?そもそも問題は回数じゃないのか。ってちょっと待て、俺ちゃんと避妊したよな。
うん、したしたした。え?避妊しても妊娠するのか?
だめだ、冷静にならなければ。そうか、物理的に考えよう。
避妊具というのはそもそも膣内での……

「あの、上田教授…」
固まったままの俺を申し訳なさそうに見上げる菊池さんと、俺同様状況を飲み込めず呆然とする矢部さん。
俺が冷静さを取り戻すのはその矢部さんよりも遅かった。
「えーーー!!山田の奴、妊娠しとるのか?」
矢部さんの大声でやっと現実に引き戻される。
「いや、あくまで可能性ですから、早計なさらないで下さい」
尋ねてきた矢部さんではなく、俺の方を見て菊池さんが答える。

そ、そうだよな。俺の避妊は抜かりなかっ………!!
どうして、このタイミングで。
俺の脳裏に焼き付いてい離れない光景が鮮明に思い出された。



『…どうして中で出させたんだ』
俺の質問に紅潮した表情で答える奈緒子。
『自分でも分からないんです。安全日でも中で…その、出すのは危険だって分かってはいたんですけど、
なんか上田さんの切なそうな顔見てたら、まだ離れたくない…って思って、気が付いたら…』

「あの時の…」
忘れもしない。忘れるわけがない。
俺と奈緒子が初めて結ばれた時だ。
あの時、そうあの時だけ、俺は確かに奈緒子の中に精を注いだ。
ふと壁に掛かったカレンダーに目を遣る。
あれから約三ヶ月だ。
妊娠の兆候が出始めるのはまさに今頃だろう。

「い、いやー、やるなぁ、相手の男」
「だから、まだそうと決まったわけじゃ…」
矢部さんも動揺しているのか、先程の覇気が今は感じられない。
そんなことを思うほど俺はどこか冷静だった。
「…矢部さん、時間も押してるので今日は…」
「あ、そ、そうやな」
俺の申し出は、今度は驚くほどスムーズに通った。
「上田教授、本当に僕の早合点かも…」
そう言う菊池さんに軽く愛想笑いを浮かべる。
とにかく、今は奈緒子と二人きりで話し合わなければ。
まだ奈緒子がここに来ていないのが不思議なほど、あれから時間が経ってしまっていた。
立ち上がった二人より先に、扉の方へ歩む。
先導することで、より早くここから去って貰うためだ。

「あ…けど、上田センセはご存じじゃないんですか?相手の男」
「……さぁ」


最終更新:2006年09月14日 18:45