sweet hot spa by ◆QKZh6v4e9w さん

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ほのかな硫黄臭。
涼やかな夜気にたなびく湯気……温泉だ。
それも確実に強羅。
いつの日にか愛する女性とともに入るとかねてから誓っていた、定宿のプライベート露天風呂に間違いない。
閑雅な照明に、湯が満々と揺れている。
膝の上には濡れたおくれ毛をうなじに落とした、一糸纏わぬ──。

なぜ山田奈緒子なのか。

上田は、唐突に放り込まれた、ひどくしっとりとしたこの情景にとまどっていた。
奈緒子の唇が動く。小さい呟きが水音に紛れた。
「…上田さん。ちゃんと座ってるの、難しいんですけど」

この宿の源泉は濁り湯だから、透明度はかなり低い。
従って湯の下は定かには見通せないのだが、上田の腿には丸みを帯びた滑らかな尻の感触がある。
奈緒子は、湯の中でふらつく躯を安定させるためか、絶えず身じろぎしていた。
そのたびに触れあう場所から戦慄に似た快感が背筋に走り、上田の躯を熱くさせている。
高めに感じる湯温のせいもあるのだろうか。
うっすらと淡紅色に染まった奈緒子は目を疑うくらい綺麗で、とても普段の彼女とは…。

上田は湯気に曇る眼鏡を外し、急いで指先をこすりあわせた。
眼鏡のレンズは常にクリアに保つべきものだからだ。それ以外の理由などない。
決して、湯の上にみえる部分だけでも目に焼き付けたいなどというヨコシマな意図からではない。
なぜ自分が眼鏡をしたまま温泉に入っているのか、そのあたりの経過も判然としないが、まあいいだろう。

すっきりとした眉。
潤み加減の大きな瞳。
口角がちょっと色っぽいかたちにあがった可憐な唇に、肩から流れる細い鎖骨の影。
上田を見上げてくるまっすぐな視線。
いつもの勝ち気さが、恥ずかし気でどこか憂いを刷いた表情のせいか、珍しくも影をひそめている。
大体、誘ったら──多分誘ったんだろう、この場面までの記憶がどこかに行ってしまったが──誘われるまま膝に乗ってくるなんて反則だ。
いつもなら絶対に断られるはずなのに。




「上田さん」
すぐ耳元でまた声がして、上田の鼓動がひとつ跳ぶ。
硫黄とは全く違う甘い香が湯気に混じっていることに気付く。
奈緒子の髪と肌と吐息の──彼女の匂いだ。
「どうしてずっと黙ってるんですか……何か、いつもみたいにバカな事、言ってくださいよ」
濁り湯の中で、上田の胸に奈緒子の肩が何度も当たっている。
腕も、肘も、腰も腿も。
操られるように手が動き、湯の中で彼女の腕を掴んだ。
ふわふわしている彼女を安定させるためだ。他意はない。断じて。

深い色の瞳に吸い込まれそうだ。

「……唇を…合わせるべきなのか。そうだ、勿論だ。心理学的見地からみても、行動の選択確率はこの場合…」
「何でそうなるんだ。それより、………恥ずかしいくらい…勃ってますね」
「う、うるさいっ」
思いきって奈緒子に視線をまともにあてる。
見つめられて羞恥をあらわにし、震えた彼女の睫の長さを確認する。

……そうだ。
彼女の憎まれ口など、どうせ照れ隠しに決まってる。
なんとなればさっきから、ずっとうっすら開いて彼を待っているような桜色の唇。

ほとんど自動的に躯が傾いて奈緒子を追いつめた。
「上田さん…」
慌てたような小さな彼女の囁き。
「とめるつもりだとすれば、遅い。人をからかうんじゃない。……そんな目で、俺を見るな」
唇が合った。
ほどけるように上田の愛撫を受け入れるしっとりとした唇。
ためらいがちに廻された細い腕を頭の後ろに感じ、上田は奮い立った。
──勿論、厭なんかじゃないにきまってる。奈緒子も、自──いや。
「……ん、ふ…上……田、さ…」
「……」
ふいに、質さなければならないような気がして、上田は唇をわずかに離す。

「どうしたんだ、you……今日はなんだかおかしいぞ」
奈緒子は潤みきった瞳を開け、上田の顎を指でおさえた。
「……上田さんの事だから、誘ってる振りしてどうせ、最後には逃げるんだろうって思ったんですよ…驚かせてやろうと思って」
「俺に逃げてほしかったのか」
彼女は赤くなった。
もじもじと肩を竦める。
「……でも、上田さん……今まではずっとそうだったじゃないですか。計算狂っちゃいました」
表情も口調も声も唇も、上田に触れる彼女の肌触りも、あまりにもあれだ。その。
……『魅惑的』。
…山田奈緒子が?
心臓が異様なまでに高鳴っている。
湯当たりか。それとも不整脈か。
今度精密検査を受けなければ…だが、とりあえずなによりも、問題はこの状況だ。




「……この!」
彼女を押さえ込む。
「あっ!」
華奢で柔らかい躯。
滑らかなかたちのいい手。
「お前、本当に山田なのか?俺を騙してるんじゃないのか。正体をあらわすんだ、宇宙人め!」
「ほ、本当に私です!なに疑ってんだ、上田」
「いいか、これは普段の俺たちでは絶対に起こり得ない状況なんだよ。そうじゃないか? 展開にリアリティというものが全くない。youが仕組んだ何かの罠かもしれない、あるいはyouが別人で──」
奈緒子はさらに赤くなった。
「そ、そういえば…って、それってどういう理屈なんだ?」
上田はじりじりと、抱え込んだ奈緒子の躯を湯の表面まで持ち上げようとした。
「待て。どれどれ、胸は──ふっ、やっぱりこの世で三本の指に入るほどのド貧乳か。確かに山田のようだが……」
「上田!はなせ」
奈緒子は真っ赤になり、逃れようとして身を捩っている。
湯でいっそうなめらかになった肌理こまかな肌が上田の躯を官能的に擦りまくる。
なんという強烈な刺激だろう。
「山田……!」
豊かな理性までもが、根こそぎ全て削りとられていく気がする。
恐るべし、温泉スキンシップ。

上田は大きく息を吸い込んだ。
「貧乳の問題はいつもの事だからまあ良しとしよう。この際だ、どさくさに紛れて言っておく…………俺は、ああ、俺は、youのことが……す……す、す、すす……す…」
奈緒子の目が切な気に揺れた。
「どうでもよくは……上田…」
「口を挟むんじゃない!こんな時ぐらい黙れよ全く……す、す、好きだ………ああ、あ、あ、…あ、あ愛してる、かもしれない」
「……わざとらしくどもるな、嘘くさい」
「本当に、だ。youのためなら、この命──」
上田の口を顎から滑らせた指でおさえ、奈緒子は目を伏せて恥ずかし気に呟いた。
「そんな事言う奴は上田じゃない。そっちこそ、偽物だろ……!」

ああ、こいつは本物の山田だ、と上田は深く安堵した。

「なんなら、四桁の四則演算で俺であることを証明してやってもいいぞ」
「や……やっぱり上田か。そんなバカな事──」
「………山田」
「………え?」
「こんな時ぐらい真面目に聞けよ」
「こんな時ぐらいって……ものすごく異様なシチュエーションじゃないか、これ」
「黙れ!!!……返事は?」
「……………ハイ…」
「……好きなんだ」
「………上田……」

最終更新:2006年09月12日 21:12