【1-5 story of her past1】



「ここまで来れば、もう追っ手も来ないだろう」
小舟の上。普段よりも落ち着いた波に進路を任せ、男は櫂から手を離した。
男の前に腰掛けている女の息は、先の逃走劇のせいでまだ落ち着きを取り戻していない。
「この流れに乗って行けばいずれ無人島に着く。そこに替えの船を用意してある」
男は激しく上下する女の肩に手を置いた。
「もう大丈夫だ、里見」
鮮やかな花嫁衣装を身に纏った美しい女は、やっと自分の状況を理解し始めた。

ここに来るまで夢中だった。
ただ手を取られるままに駆けてきた。
隣に立つ好きでもない男や、両親の笑顔に吐き気を覚え、
騒ぎ立てる島の人達の声に、叫び出しそうになる衝動を必死に抑えた。
自他への嫌悪感に支配され、絶望していた。
心の中に大切な思い出を閉じこめ、これからはそれに縋って生きると覚悟していた。
けれど、その思い出は、思い出になることを良しとしなかった。
突然群衆の中から飛び出し、その大きな手で女の細い体を抱きしめた。

「里見、もう安心していい」
温かい手が女の頬を撫でる。
「…泣くな」
少し困ったような笑顔を浮かべる愛しい人に女は抱きついた。
「…泣いてません。」
「そうか?」
もう二度と耳にすることも無いと思っていた懐かしい声。
女は男の体に回した腕に力を込めた。



「来るなら、もっと早く来てくれればいいのに」
嬉しさと照れを隠そうと、女は男の顔を見ずに悪態をつく。
「悪かった。ギリギリの方が盛り上がると思ってな」
「何言ってるんですか。もう少しで、穴開きの儀式が始まる所だったんですから」
「それは困る」
苦笑しながら男は女の体を離す。
赤く染まった女の顔を見つめながら、お互いの息が掛かる距離まで、男は顔を近づけた。
「里見」
「……はい」
「ジュヴゼーム」
「………わ、私も…ジュ、ジュヴ…」
男の袖をきつく握りしめ、答えようとする女はただ顔を赤く染めていく。
男はそんな女を愛しそうに見つめ、その唇に口づけた。

「んっ…んんっ」
驚きで目を見開いた女は、ゆっくりと瞼を落とし、男の口づけに答えた。
「んっ…はぁ」
唇が離れると、苦しそうな息の下で女は言葉を紡ぎだした。
「はぁ、はぁ…剛三さん、慣れてる…」
女の言葉に微かな嫉妬を感じ取り、男は微笑み、そのまま女の細身を抱きしめ、腰に手を回した。
「ちょっ、剛三さ…何して…」
緩められた腰紐に気付き、女は微かに体を揺らした。
そんな女を見下ろし、男はからかうように言った。
「いや、折角だから私が儀式の代役を務めようかと思ってるんだが…」
一瞬不思議そうに顔を歪め、意味を理解した途端女の表情が強張る。



「…だめか?」
女は困ったように眉を寄せ、暫く固まっていたが、やがて小さく頷いた。
静かに揺れる船体に背中を預け、女は男に体を任せた。
露わになっていく火照った肌を夜の潮風が冷ましていく。

「あっ…!」
男の前に晒された、あまり大きくない胸の膨らみを女は恥ずかしそうに手で隠す。
男は女の耳元でその官能的な美しさを褒め、赤面した女は堅く目を瞑ったまま胸から手を離した。
「はぁっ…んんっ!」
男の髪を指に絡め、見慣れた膨らみが男の舌で濡らされていく様を見て、女の鼓動は高まっていく。
いつの間にか体を覆っていたものは全てはぎ取られていた。
自分でも触ったことのない場所を男が指で撫で、動かし、掻き混ぜる。
「あぁっ!んっ…あっ、あっ」
聞いたことさえない卑猥な音が、自分の下半身から響くことに女は首を振ることしかできない。
信じられない淫靡な声が、自分の口から飛び出すのを押さえようとしても徒労に終わった。
「はうっ…やっ!恥ずかし…んあぁっ!」
男の指が女の秘部にある突起を弾き、女は高い声をあげる。
海の上で、女の体は水から上がった魚のように何度も跳ねた。

女は羞恥心と混乱で思考が働かず、ただ熱くなる体の感覚に支配されていた。
そのうちふと、女の脳裏に恐ろしい考えが浮かんだ。
もしかして、これは夢じゃないだろうか。
本当は今、自分はまだ島にいて、好きでもない男に抱かれていて、その現実を否定しようと夢を現実と錯覚しているのかもしれない。
そう考えると、女は堪らなく怖くなり、男の体にしがみついた。
「っ!剛三さん!!」



女の気持ちを知ってか知らずか、男は優しく女を抱きしめ返す。
「里見、目を開けて」
女は力無く瞼を動かした。
視界は朦朧としていて、よく前が見えない。
自分の上に、誰かいる。この人は……

ゆっくりと、下から何か大きいものが自分の体に侵入してくる。
腰を大きく仰け反らせながら、女の頬を涙が伝う。
「剛…三、さんっ…あっ、んんっっ!!」
きつく唇を噛みしめ、女は現実を理解した。
今自分は、間違いなくこの人の腕の中にいる。
微かに揺れる小舟の上で自分の体も揺れている。
自分以上に熱く感じられる男の体を、女はきつく抱きしめた。
愛しい人とその上に輝く星の輝きを、その眼に焼き付けながら。



「まるで昨日の事みたい」
里見は自分が忌み嫌った島の崖から、あの時と同じ海を見下ろしていた。
黒い海から響く波の音は、今でも自分の耳に残っている。
遠い遠い、大切な思い出。
あの時は確かに現実だった。
けれど長い年月があの日を思い出に変えてしまった。

穏やかな表情で里見は海から空へと視線を移した。
「奈緒子達のせいで思いだしちゃったわね」
彼と自分の宝である娘の姿が、あまりにあの時の自分にそっくりだったから。
姿だけではない。
娘も、自分と同様に愛しい人……かどうかは、まだ微妙だけれど、迎えに来てくれる人がいた。



里見は自分の夫と姿を重ねた男に言われた言葉を思い出した。
自分が、夫の復讐のために娘までも利用したのではないか。
そう尋ねた男の目は真剣だった。真剣に、娘の事を考えている目だった。
「そうね、たぶんあの人が、奈緒子の…」
里見は安心したように微笑んだ。

「剛三さん、私達の娘は、きっと幸せになるわ」
あの時と同じ星を見上げ、里見は呟いた。
「私達と同じように、……いいえ、私達以上に」
里見は、自分の手を見た。
変わらない星空、変わらない海、自分だけが変わってしまった。
あの時愛しい人に包まれた手には、彼と共に過ごせなかった日々の印が刻まれている。
本当は、ずっと、あの暖かい手に握られていたかった。
一緒に年月の印を刻みたかった。
けれど、彼はもういない。
分かりきっていることなのに、ここに来て、里見はまざまざと思い知らされた気がした。

熱くなった頭を小さく横に振り、里見はもう一度空を見る。
「ねぇ、剛三さん……あの時、言えなかったから、今言うわね?」
軽く息を吸って、里見は小さく呟いた。
「私をさらってくれてありがとう。……ジュヴゼーム」
ただ、さざ波の音だけが、里見の耳に響いていた。
最終更新:2006年09月08日 10:18