『いんみだれ』(矢部×山田) by 151さん



…進めた、はずやったんやけど。
俺は無意識の内に、先に話題にあがった女の家に来てしまっていた。
「菊池があんまり山田、山田煩かったから混乱したんかな?」
自分の行動がまったく理解できず、頭を掻く。

………折角やから顔でも見ていくか。
ここ暫く変な事件は起こっていない。
それは自然と、俺があの女に会っていない日数に結びつく。
久々にあの生意気な、その上、仮にも俺の部下を二人も振るような女の顔を見るのも悪くない。
何故か自分に言い聞かせながら、ボロアパートの階段を上る。
「せやけど、ほんまボロやなぁ」
小さく呟いたつもりが、大きく反響し慌てて口を押さえる。
俺は人気の全くない通路を歩きながら、女の家を探した。
…そういやぁ、長い付き合いやけど家を尋ねた事はなかったな。
横に『山田』と表札が立てられた扉を見つけ、歩を止める。
俺は小さく息をのみ、扉を叩こうと拳を掲げた所で、固まった。
……って何緊張しとるんやろ、俺。
首を横に振り、扉を二、三度ノックする。

中からは…何の返答も無かった。
寝ているのかと思ったが、それなら寝言が外まで聞こえてくるはずだと気付く。
「何や、留守か」
どっと肩から力が抜ける。
「阿呆らし…帰ろ帰ろ」



俺は昇った時とは違い、軽くなった足取りで階段を降りる。
「…にしても、こんな時間にどこ行っとんのや、あの女」
口にすると同時に、はっと気付いた。
……上田センセのとこか。
そう考えた途端、無性に足と床が引き合う気がした。

階段を降りきった足が、地面に着こうとした、その時だった。
「あれ?矢部さん?」
聞き慣れた声がし、俯いていた顔を上げる。
そこには、片手に洗面器とタオルを持ち、微妙に髪の濡れた奈緒子がいた。
奈緒子は驚いたように俺を見つめている。
「おまっ…お前、どこ行っとんたんや!」
奈緒子は首を傾げながら答える。
「どこって…見れば分かるでしょう?銭湯ですよ」
銭湯。その言葉に自分が安堵したことに気付き、それを否定するように俺は捲し立てる。
「銭湯って…もう夜遅いんやから、いくらお前でもこんな時間に独りで彷徨いたら…危ないやろ!」
それを聞いた奈緒子は心底意外そうな表情をする。
「大丈夫ですよ、歩いて三分の所だし。…矢部さん、心配してくれてるんですか?」
「阿呆か!誰がお前の心配なんかするか!俺は警察として当然の注意をしただけです~!!」
早口で捲し立て、息を切らした俺は大きく息を吸う。
同時に頭が冷え、自分の行動の馬鹿らしさを自覚した。
「…はぁ、まぁええわ。じゃあな」
「え?…ちょ…」
さっさとその場を去ろうとする俺に、奈緒子が背中から呼びかける。
「ちょっと、待って下さい!何か私に用事があったんじゃないですか?」
俺は歩を休め、言い訳を考えるが結局思いつかず、振り返らずに答える。
「…何でもないわ。酔って道間違っただけや」
そう言って歩き出そうとした俺の腕を、駆け寄ってきた奈緒子が掴んだ。



「待って下さい」
「…何や」
その場にいるのが堪らなく気まずかった俺は、一刻も早くここから離れたい思いで一杯だった。
「よかったら、家でお茶でも飲んで行きませんか?」
俺は仰天して奈緒子を振り返った。
…は?こいつ今、何つった?
奈緒子は微笑みもせず、真剣な表情で俺を見上げてくる。
「ちょっと…相談したいことがあるんです」
奈緒子の口から出た意外な台詞に呆然とする。
…こいつが?俺に?相談?

地に足が張り付いている俺の腕を引き、奈緒子はアパートの階段を昇りはじめる。
俺は奈緒子の言う『相談』の意味について考えた。
長い付き合いだが、こいつから相談を受けたことなど一度もない。
元々悩みを人に打ち明けるような性格には見えないが、それを差し置いても、顔を合わせれば喧嘩ばかりの
自分に相談を持ちかけようとするなど、考えもしなかった。
思い当たるとすれば、よくこいつが巻き込まれる『黒門島』に関することだが。
しかしそれにしても昼間、警察を尋ねるほうが当然だろう。
…だいたいこんな時間に、いくら俺やからって仮にも男を、独り暮らしの家に上げようとするか?!

奈緒子の無防備と無自覚にほとほと呆れている間に、知らず、奈緒子に引かれその家の前まで
来ていてしまっていた。
俺はハッとして奈緒子に掴まれたままの腕を振りほどく。
とりあえず、その相談とやらを聞いてさっさと帰るしかない。
…変に意識してんの悟られたら、格好つかへんもんな。いつも通りに…。



カチャリと鍵を開ける音が通路に響き、奈緒子が扉を開ける。
「…どうぞ」
促されるまま中に入り、部屋を見渡しながら俺は思わず呟いた。
「汚っ!!」
「うるさい!……ちゃんと靴脱いで上がって下さいよ」
俺の習性を理解しきっている奈緒子からの忠告に、微妙な満足感を覚える。
言われたとおりに靴を脱ぎ捨て、向かい側に奈緒子が座るテーブルの前に座った。
「しっかし、狭いうえに色気のない部屋やなぁ…お前、本当に女か?」
まじまじと部屋を見渡し、まぁ予想通りとも言えるが、女らしさのかけらもないその装飾に呆れる。
「だからうるさいって!…これでも、いろいろ凝ってるんだからな」
そのこだわりとやらを是非ともお聞きしようかと思ったが、だいたい予想できたので敢えて聞かなかった。

沈黙が流れ、奈緒子は俺から視線を逸らし、横にある亀やネズミの様子を見ている。
俺はそんな奈緒子の後ろ髪をジッと見つめた。
まだ水気を帯びた長い髪が、狭い部屋に微かにシャンプーの匂いを充満させている。
……普通の男なら、ここでムラムラ~と来るんやろうな。まぁ、俺の場合、
相手がこいつやしあり得へんけど。
そうは思いながらも奈緒子から視線を逸らす。
奈緒子は黙ったまま自分のペットをじっと見つめている。
かなり、長い静寂。

「お前、いいかげん茶くらいだせよ!暇やろぉが!」
苛立った俺の言葉で静寂が崩れる。
それを受け奈緒子はハッとしたのか、慌てて台所へと駆け寄った。
「…ごめんなさい、ボーっとしてました」



さっきから重々承知していたが、今日の奈緒子はどこかおかしい。
俺は後ろで茶を沸かす奈緒子に、振り返ることはせずに問いかけた。
「なんや、その……相談って何やねん」
一瞬の間の後、奈緒子が答える。
「………矢部さんって、まだ結婚してませんよね」
「はぁ?!?」
意外すぎる奈緒子の問いに思わず振り返る。
奈緒子は俺を見ることなくコンロに火を着けている。
「……何を今更。してへんのくらいお前も知っとるやろ!」
声色に呆れを込めて答え、俺は体を元に戻す。
また、一瞬の間。
「……じゃあ、付き合ってる女の人はいるんですか?」
俺は振り返る気も失せ、大きくため息を吐いた。
「あのなぁ…お前、いい加減にせぇよ!俺はお前が相談がある言うから、わざわざこんな時間に
付き合っとるんやぞ!何で俺が質問されなあかんのや!」
「いいから!……答えて下さい」
奈緒子が俺以上の大声で、怒鳴る俺を制し、思わず肩が跳ねた。
俺は仕方なく奈緒子の質問に答える。
「………まぁ、今は…そういう特定の奴はおらんけど。まだまだ遊びたい盛りやしな!」
奈緒子からの返答はない。
「はぁ…せやから、何やねんお前…何が言いたいんや?!」
返事の代わりにお湯の沸く音が響き、奈緒子は火を止めた。
背中からお茶が湯飲みに注がれる音が響く。
長い、長い間。



コトンと目の前に湯飲みが置かれ、俺は奈緒子の顔を覗き込んだ。
奈緒子が向かいに座り、俯けていた顔を上げる。
「ねぇ、矢部さん。私の事どう思ってますか?」
その台詞に俺は硬直した。
……は?な、何やて?……つうか、何や、この告白みたいな流れは。
そう思った瞬間、それはあり得ないことに気付く。
目の前の女が誰を好いているかなど、充分すぎるほど理解していた。
一瞬の予想、いや、期待が、瞬く間に怒りに変わる。
「山田、人からかうのもえぇかげんにせぇよ!」
そう言って奈緒子の額を軽く叩く。
「いったぁ!」
手加減したつもりだったが、奈緒子には堪えたらしい。
「帰るぞ」
俺は構わず立ち上がろうとした。
が、奈緒子が俺の手を掴み、それを制止する。
「待って!…下さい。…お願い、答えて」
そう言って涙目で俺を見上げてくる。
瞬間心臓が跳ねたが、奈緒子が涙目なのは先程額を叩かれたせいだと、自分に言い聞かせる。
だが余りに真剣な眼差しに観念し、俺は再び腰を下ろした。
奈緒子の顔を見つめ、思いきり息を吸う。そして…。
「はっきり言わせてもらう!俺は、お前みたいな貧乳手品小娘のことなんか何っとも思ってへんわ!
歯牙の先にも掛けてません!俺の好みの範疇外も範疇外!言うなればチャダと同レベルや!!」
俺は思いきり奈緒子に怒鳴りつけた。
まだ言い足りなかったが息がきれたので、この辺で勘弁してやることにする。
奈緒子は俺の大声に目を丸くしていた。



俺は奈緒子に握られたままの手を乱暴に振りほどいた。
手のひらに滲んだ汗を、ズボンで擦る。
どうせ奈緒子の方も怒鳴りつけてくるだろうと践んでいた俺は、更にそれに言い返す文句を考えた。
しかし、奈緒子の返答は俺が予想し得ないものだった。
「はーっ、よかった!」
奈緒子は心底安心したように息を吐き、緊張の解けた笑顔を浮かべる。
「はぁ?!」
まったくもって理解不能。思考範囲外。
何をどうしたらそんな反応が返ってくるのか。
俺が顔をひくつかせながら見つめていると、奈緒子は勢いよく立ち上がった。
「よし!ちょっと待ってろ、矢部!」
「はい?!…って呼び捨てはやめぇってあれほど…おい、山田?山田!!」
奈緒子は俺に構わず奥の部屋に入り、物陰に隠れてしまった。

奈緒子に翻弄され続け、混乱している思考を懸命に落ち着かせる。
女という生き物は元来そうだが、ここまで不可解なのは奈緒子くらいのものだ。
……何で俺に好かれてへんと、『よかった』になるんや?!だいたい、上田センセ以外眼中にないくせに
何で俺にあんな事聞くんや。……っていうか、今あいつ何しとんのや!!
いくら考えても焦燥ばかりが募る。
向かいではゴソゴソと音がし、奈緒子が何かしていることしか伝わってこない。
「おーい、山田ぁ!!だから君は何をしてるんですか?!」
「ちょ、ちょっと待っててください!」
死角からの奈緒子の返答に軽く項垂れる。
そういえば奥の部屋には手品用の衣装が沢山かかっていた。
…まさかそれに着替えて、今からしょうもない手品ショーでもするんやないやろな。

最終更新:2006年09月07日 10:10