きっかけ by 243さん



ある依頼を解決した帰り道。
上田を気に入った依頼人の娘に食事をご馳走になり、
上田と奈緒子は家路についた。
「うーん、満足満足♪」
お土産のケーキの箱を振り回し、
奈緒子は幸せそうに微笑む。
その後ろ、1メートルほど離れたところに
上田が歩いていた。
「…もう少し遠慮したらどうなんだ?」
上田がため息をつく。
奈緒子が振り返り、さも
当然のように言い放った。
「あっちが遠慮するなって言ったんじゃないですか」
確かにそうなのだが、
奈緒子の食べっぷりは相変わらずだった。
超高級肉のフルコースだったのだから
無理もない。
「あんなに美味しいものは久しぶりに食べたなー。
上田のおかげだな。
感謝してますよ♪」
めずらしく素直な奈緒子に少し見とれ、
上田は視線を逸らした。




自分でも気付いていた。
最近、奈緒子を見つめることが多いこと。
体に触れたいと思っていること。
(いつからだろうか…)
「あっ、信号変わる!急げ上田っ」
走りだした奈緒子の腕を思わず掴んだ。
横断歩道の手前で、
信号が点滅し赤に変わる。
「上田っ…あーあ。ここの信号長いんですよ」
(しまった。腕を放すタイミングを逃してしまった…。
振り払ってくれ!)
上田の心の叫びも虚しく、
奈緒子は特に気にする事無く
車の流れを眺めている。
上田は戸惑い、手をそっと放そうとした。
細い腕。白い肌。
全てが愛しくなる。
上田の手はいつのまにか



「…上田さん?」
奈緒子が怪訝な目で見上げる。
(しまった…)
上田は慌てて手を離し、
無意味に腕を組んでみる。
「な、なんだ」
「お前…ケーキが欲しいのか?」
奈緒子はケーキの箱を両手で抱えて3歩下がった。
「…いや、それはお前のものだ」
上田が言うと
奈緒子は安心したように微笑み、
また上田の隣に並んだ。
(さっきより近いような…)
柄にもなく心搏数が上がる。
その時、いくつものクラクションの音が鳴り響いた。
「なんだ?」
「…上田さん、あの車ふらふらしてません?」
トラックが右に左に揺れ、
周囲のドライバーの邪魔をしている。
「居眠り運転…?」
奈緒子が呟いた時、
急にトラックの速度があがり
こちらに向かってきた。
「うわっ…!!」
「奈緒子!!!」



「ん…、いたた…うーん?」
奈緒子はゆっくりと体を起こした。
目が覚めると、辺りに人だかりができている。
奈緒子は野次馬から少し離れたところに寝かされていた。
「助かったのか…。あっ、ケーキは!?」
ケーキの箱は奈緒子の足元のほうに置かれていた。
真っ白だった箱が少し黒くなっている。
箱を開け、奈緒子はがっくりとうなだれた。
「ううー、やっぱり崩れてる…」
8割方は奈緒子が振り回したせいで崩れたのだが…。
奈緒子はケーキの箱を抱え、改めて辺りを見回した。
トラックは自分達がいたところの信号機にめり込んでいる。
救急車とパトカーがやってきた。
「ドライバーの他に怪我人はいませんか!」
救急隊員の言葉に体を見やるが、
特に傷は見当たらなかった。
「よかった…。…。」
奈緒子は少し不安になっていた。
上田が近くにいない。
まさかトラックに巻き込まれたのだろうか?
奈緒子は野次馬を掻き分け、トラックに向かっていく。
「上田さんっ!おい上田!」
どこにもいない。
自分一人置いて、どこかに行ってしまったんだろうか。
「…上田さんっ!!」
叫んだ瞬間。



不意に肩を抱かれ、
奈緒子は人だかりに連れ戻された。
「こっちだ」
人の隙間を抜け、
先程自分が寝かされていた方に向かう。
「一人でうろつくな!
タクシーを呼んでやったのに…」
「…うえだ…?」
奈緒子をタクシーに押し込み、運転手に行き先を告げると、
上田は奈緒子から手を離した。
「消毒してやるから家に来い」
「……」
奈緒子は俯いて、ケーキの箱を抱える手に力を込めた。
理由もわからないが、
目に涙が溜まっている。
何か口に出したら溢れてしまいそうだ。
「…どこか痛いのか」
首を横に振る。
「ケーキが惜しいのか」
頷きかけ、首を振る。
そんな悲しみじゃない。
悲しいより、嬉しい。
この人が、一番近くにいること。

いつも、誰よりも近くにいた。

誰よりも。



「…着いたぞ」
奈緒子は上田に体を支えられ、タクシーを降りた。
部屋の鍵が開けられ、
そのままベッドまで連れられる。
「座れ。足を出すんだ」
奈緒子はベッドの端に座り、
フレアスカートの裾を膝まで上げた。
膝の下を少しすりむいたようだ。
上田の手が足に触れ、
そっと消毒液を吹き掛ける。
冷たさと少しの痛みに、足がぴくんと跳ねた。
「痛かったか?」
奈緒子は首を振った。
上田は無言のまま奈緒子の足にガーゼをとめる。
「…ありがとう、ございます…」
消え入りそうな声。
これが限界。

最終更新:2006年09月07日 09:54