前の夜 --シリーズ完結記念-- by 216さん



  先日買い換えたばかりのパジャマに着替え、上田は奈緒子を寝室に呼びよせた。

  大きなベッドの裾にきちんと正座し、前を指差す。
  「まあyouも座りなさい」
  「なんで正座」
  言いつつ奈緒子もベッドにあがり、ゆらゆらしながら膝を揃えた。
  「………」
  しばしその姿を観察する。
  揃いの(勿論サイズは全然違うが)パジャマがいい感じだ。
  ネグリジェも捨てがたかったものの憧れのペアルックをどうしても諦められなかった上田のチョイスである。
  「なんだ、上田」
  ストンとしたシンプルなデザインがかえって女性ならではの愛らしさを強調している事を確認し、己の選択の正しさを実感した彼は内心にんまりとした。
  咳払いする。

  「もう歯は磨いたのか」
  「うん」
  「そうか。あー、おほん。……いよいよ明日だな」
  「…ああ。ええ」
  「一生に一度の大事なイベントだ。忙しい一日になるだろう」

  奈緒子は居心地悪そうに視線を逸らした。
  手入れの行き届いた綺麗な髪がさらさらとパジャマの肩を覆う。

  「で、だ」
  「……」
  「だから、今夜はお互い眠るだけにしたほうがいいんじゃないかと俺は思うんだが……、you。どう思う?」
  「えっ」

  奈緒子は驚いたように上田を見上げた。
  「いやあの。最初からそのつもりですけど」
  銀縁眼鏡の上の眉間にかすかな溝が刻まれた。
  「……。なんで」
  「寝不足だとクマができたりムクむってこの前、エステサービスに行ったときにメイクの人が」
  「………」
  「そんな事を言ってたんですよ。だから」
  「君が最近イヤがらなくなってきたのは知ってる。……フッ、…フフ……はしたない奴だ」
  「聴けよ」
  「だがいけない。いい感じに馴れてきたとはいえ式の前日くらいは一応、身を謹んで清らかに過ごさないと、……なんだ、ほら……お母様にも申し訳が立たないしな」
  「……」
  奈緒子は半眼で上田を眺めた。
  一昨日も出勤時間間際までベストを尽くしていた男の言い草とは思えない。
  上田は無駄に渋いひげ面で彼女を見つめていたが、身を屈めると長い髪の翳に口を寄せた。
  「式のあとは、“新婚旅行”だな」
  「う、うん」
  「明日の夜には箱根強羅は超高級老舗旅館のプライベート露天風呂付離れ座敷の一室で」
  「早口言葉か」
  「二人きりでゆっくり過ごすんだ。時間を気にせずしっぽりと……どうだ……楽しみだろう」
  「………」
  「…フ、フフ、…ッフフフ」



  楽しみにしてるのはお前だ!とまるっと指を突きつけたいところだが、万が一にも“新婚旅行”の恥ずかしい詳細な脳内予定を囀り始めたら始末に困る。
  そうなるとこの大男は止まらないので奈緒子は内心引きつつも頷いておいた。
  「でしょ!……そういうわけだ。そのためにも今日はしっかり寝ておかないと。さあ」
  上田はぽんぽんと枕を叩いて見せた。
  「おいで、you」
  「うん」
  奈緒子は毛布をめくり、ベッドの端っこに横たわった。
  当然のようにスプリングを揺らしつつ傍に上田がもぐりこんでくる。
  ベッドサイドの灯りを絞ると彼は寝返りをうち、思わせぶりに奈緒子を眺めはじめた。
  露骨な視線が気になって眠れない。

  「……上田」
  「ん?」
  「寝ろ」
  「ああ。…you」
  「……」

  奈緒子は寝返りを打ち、眼鏡を外して潤んでみえるでかい眼を見た。
  呟く。
  「何ですか」
  上田はそろそろと片手を伸ばしてきた。
  シーツの上に波打つ長い髪を探り、じっと奈緒子をみつめたまま、ぎこちなく、指先に巻きつけはじめる。
  どう控えめにみても“誘い”に他ならないその仕草と彼が発散しているダダ漏れの期待感に奈緒子は思わず赤面した。
  「おい」
  肩をすくめる。
  ぎし、と小さくスプリングが揺らいだ。大男の重心が近づいてきているのがわかる。
  「あのな上田。お前が言ったんだぞ、偉そうに。何もしないって。しかも三分前だ」
  「おう。それはだな」
  上田は顔を伏せた。

  「……建前っていうか、世間体ってもんがあるんだよ世の中には、わかるだろ。な。ん?」
  「うちの母に申し訳ないんじゃなかったのか」
  「一応って言った」
  「それに明日は、し、新婚旅行でゆっくりがどうのこうの」
  「──二十四時間近く先の話じゃないか」

  上田はついに奈緒子の肩を掴むともどかしげに引っ張った。
  それでも足りないのか、膝裏に脛を絡めて引き寄せる。
  勢いよく頬が当たると分厚い胸郭の奥で蚤の心臓がドキドキと跳ねているのが奈緒子にもわかった。
  「べ、ベッドなんだから。こうしたくなるのも仕方がないだろう」
  「こうしたくって、セックスか」
  「しっ!はしたない、違う!……一緒に寝てるんだから、こうしてくっついてるのが自然なんだよ。別に構わないだろ、君だって。……今更」
  「い、いいですけど」
  奈緒子は更に赤くなったが身をくねらせ、男臭いひげ面を見上げた。
  「じゃあ、……ええと。今日はこうしてるつもりなんですよね。何もしないで」
  「……どうだかな」
  灯りの影で見えにくいものの、上田の頬も赤くなっているようだった。
  「正直言ってこればかりは君の俺への思慕や欲情という要因もあることだし、今の時点で断言するわけにも」
  「おい」
  「だって、そうだろう……」
  大きな掌がいつの間にか肩を流れ、パジャマに覆われた脇腹のラインをゆっくりとさまよっている。
  上田は背を丸め、甘い香りの黒髪に顔を埋めた。呼吸が早い。
  掌は前にまわりはじめた。
  「……you」
  指は熱く、ほんのわずかに震えているようだ。
  「……」
  奈緒子は気恥ずかしさに眉を寄せた。

  頭の固い上田教授は正式なプロポーズ→結納→同居という手順を踏みつつ二ヶ月前、ようやく二人の関係を大人仕様に更新することに成功したのである。
  それまでまがりなりにもあった性的(?)な触れあいは例のカミソリキスだけという衝撃の真実は誰にも信じてもらえないだろう。
  勝因は“直球”。
  恥もプライドも捨て、愚直なまでの一本押しで彼はついに念願の伴侶をゲットしたのだ。
  思えば長い道のりであった。人生の勝利者たるに相応しい、まさに涙なくしては語れない努力の日々だった。

  しかしこれまでの不毛な時間に上書きするかのように一通りのことは一気にあらかた済ませたくせに、意に染まぬタカムラ人生が長すぎたためであろうか。
  こういう展開に至る際、必ずといっていいほど未だに、まるで初めての時のように上田は甚だしく興奮してしまうらしい。
  特に相手がこれまた恋愛沙汰に不向きの上一年間行方不明で更にその後しばらく記憶障害という非常に手を出しづらい状況にあった奈緒子である。
  彼女に対する感情をいやというほど自覚したのちもやむを得ず持て余し続けたそのあたりの事情も興奮に加味されているかもしれない。
  今現在の問題は、奈緒子のほうもこうもあまりに判りやすく緊張しトキメかれると彼同様にひどく恥ずかしくなってしまう点にある。
  そう。
  ──初めての時のようにだ。

  「you。つかぬ事を訊くが」
  「はい?」
  「このボタン、ちゃんと全部外れるのか?」
  「え?」
  「いや……新品だからな、もしかしたら不良品ってことも……か、確認してみてやろうか」
  指が奈緒子のパジャマの一番下のボタンを引っ張っている。
  理解不能の屁理屈だが、声が異常に真剣なので奈緒子としても笑うに笑えない。
  「いや、ちゃんと着替えられたし。大丈夫ですけど」
  「………」
  上田は奈緒子に身を寄せると、もう片腕でやんわりと抱き寄せた。
  「何」
  「………なあ」
  顔をあげると、ひげ面が物凄く近くなっている。
  「……」
  上田は奈緒子をみつめたまま心持唇をとがらせ、口ひげを歪めた。
  そのまま期待に溢れたまるっきり乙女な表情ででかい眼を閉じていく。

  (こ、こっちに任せるな!! ハッキリと言え、ハッキリと!)

  ここまで判りやすい雰囲気なのに言わないのが上田次郎なのだ、それは奈緒子も知っている。
  この大男に異性として求められる現実には実のところ微妙にまだ慣れないのだが、実際、躰だけは何度も重ねてきたから今ではキスだのなんだのに抵抗は無い。
  頬を染めつつもしかし彼女は理不尽さに眉を寄せた。
  奈緒子だって恥ずかしいのは一緒なのに。

  「……」

  奈緒子は吐息をついた。
  パジャマの隙間に潜り込み細い腰のくびれを焦れたように撫でている掌にさっきから背すじがゾクゾクしている。
  「……仕方ない。い、一回だけだぞ」
  奈緒子も唇を尖らせ、ちゅっと彼にキスしてやった。
  「……」
  上田の鼻孔から息が漏れる。
  奈緒子は目を開け、急いで顔を離した。
  「はい、おしまい!」
  「──ええっ!?」
  上田がかっと眼を見開いた。抱かれた腕に力が篭り、奈緒子は顔をしかめた。
  「おしまいって」
  「いや、あの」
  「一回って──もしかして、まさか、キスだけか。ま、まさかそんな事ないよな、you!」
  「お前は何を期待して」
  「……決まってるじゃないか」
  「何もしないんだろ」
  「いや、だから、それはだな…」
  「……。ほんっとーに面倒くさい奴だなお前は!」



  奈緒子は上田を睨んだ。双方ともに真っ赤になっている。

  「ハッキリ言え上田」
  「な、な、何をだ…」
  「したいんですよね」
  「………………」
  「いいか、こうしてる間にも貴重な睡眠時間が減っていくんだ。やっぱしたくなったっていうならしたいんだと男らしくですね」
  「そんな恥ずかしい台詞を科技大教授のこの俺がか。冗談だろ」
  「教授は関係ない」
  「ヤだよ。面子に関わる」
  「何がヤだだっ! ああもういやだ、この調子で一生過ごすのか」
  「フッ……それで何も不都合は無いだろう。君が毎晩『お願いダーリン今すぐ欲しいの』」
  「裏声を出すな」
  「って希少な色気を振り絞って全力で甘えてくればそれで済むことじゃないか。俺に。全裸で」
  「そうか、わかりました。明日の披露式はブッチします。綿帽子はお前にくれてやる。金屏風の前で一人で被ってろ」
  「おい!」
  「お願いしますかブラジルかだ、ハッキリ言えるなら、考えてやらなくもない」
  「ブラジルって、you」
  「どうなんだ。言っとくけどブッチするのは披露式だけじゃないぞ。当然、お前が冷蔵庫のカレンダーに赤マジックで花丸書いてる“新婚旅行(はぁと)”もだ」
  「ばんなそかな!」
  「何がそかなだ、いいですか、上田さんはですね回りくどいんですよ昔から」
  「意地悪なことを言うなよ。……い、言えばいいんだろ」
  「です」
  「……ブラジルじゃ……ないほうで」
  「出口か。おやすみ」
  「待てよ!」
  「ぐーぐー」
  「わかったよ。したい」
  「ぐーぐー」
  「したいです。お願い、you。──寝てないんだろ、起きろよ!」
  「今後もこの件に関してはハッキリ言うと約束するか」
  「おう」
  「言っとくけど、今日は短めだぞ。一回だけだからな!」
  「……」

  喜びの鼻息とともに、上田が大きな躰全部をつかってぎゅっと抱きしめてきた。
  情緒皆無の言い合いにもめげない彼の幸せな気持ちが伝わり、自分の中のそれを引っ張り出すのを感じた奈緒子は慌てて赤く染まった瞼を閉じた。


最終更新:2014年03月04日 23:20