by ◆/YXR97Y6Ho さん

  あの時薄く開いてカミソリの刃を受け取った唇が、今は一文字に固く引き結ばれて、上田を拒む。
  せめて顔を左右に振って引き剥がそうとしても、上田にはすぐに追いつけてしまえた。
  強く握れば折れてしまうのではないかと思える細腕は、大柄な肩を押しのけようと突っ張られている。
  足はじたばたと抵抗を示すが、衣服着用時で85キロの大男を振り払えるはずも無かった。
  どれくらいの時間が経っただろうか。
  奈緒子の抵抗が弱々しくなった頃、違和感を覚え、上田は顔を上げた。
  彼女の顔は、諦観にも似た憎しみで彩られていた。

  「……すまなかった。」

  「勝手にキスして、勝手に、謝って。最低ですね」

  「そうだな」

  「上田とキスするなんて、イヤに決まってる」

  圧し掛かっていたままの体を退ける、上田。何故だか、重力が急に倍になったような気がした。
  顔を背けたままの奈緒子は、涙を流していた。

  「イヤか」

  「イヤです」

  即答する奈緒子の涙を、上田は腕を伸ばし、掌で拭った。
  拭っても拭っても、奈緒子の涙はこぼれ続ける。

  「上田さん。これ以上、踏み込まないでください。私も、忘れます」

  奈緒子はようやく、その顔を上田の方へと向けた。涙が長い髪を濡らして、色を失った頬に張り付く。上田は涙を拭うのをやめて、そっとその髪を払った。
  彼女は、男の目を静かに見据えて悲しげに笑い、小さく呟いた。

  「私の心に、踏み込まないでください。
  好きになりたくないんです。失うのはもう、怖いんです。」

  強く抱き締めたいと、上田は思った。
  ――今、この張り詰め、傷ついた心を癒してやれるのは俺しかいない。
  それなのに、この俺すら、彼女は拒もうとする――

  「それならもう、手遅れだ。俺が、君を愛してしまった」

  優しすぎる彼女の、この指だけは、何があっても、もう二度と離したくないと。
  縋るように、祈るように。上田次郎は山田奈緒子の手を握った。

  奈緒子はそれ以上、拒もうとしなかった。
  上田が服を脱がせた時も、協力的でこそなかったが、嫌がる素振りは見せなかった。
  だが、薄い胸を覆う下着に手をかけようとした時、ようやく口を開いた。

  「イヤな夢を、見たんです」

  「夢?」

  聞かれなくてもいいと思って口にした奈緒子の言葉は、それでも上田の耳に届いていた。
  奈緒子は小さく頷き、そのまま、続ける。

  「上田さんが、死ぬ夢。いつかは、みんな、死んでしまうのに。
   どうして上田さんが死ぬって考えるだけで、こんなに、心が冷たくなるんでしょう?
   いろんな人の死に立ち会って、私、人が死ぬのには慣れてしまったと思っていたのに」

  どうやったらそんな夢で「トクウエ」という言葉が出てくるんだと突っ込むべきか、一瞬悩んだ上田を他所に、奈緒子は尚も言葉を続ける。

  「私もいつかは死ぬんですよね。その時、上田さんは悲しんでくれますか?」

  そう言って泣きそうな顔で笑った女の、肩を流れる黒い髪はひんやりとした夜気を孕んでいて、触れた、男の節くれた指を冷やす。
  その冷気が心臓に直接突き刺さったような気がして、上田は僅かに身震いした。

  「今の今まで、考えたこともなかったよ」

  上田はそう口にしながら、それは嘘だと、自分でわかっていた。
  ゆっくりと頭を振って、もう一度言葉を紡ぐ。

  「いつか、消えた君を探し回った時に、少し考えた。それだけで頭が真っ白になった。
  そうだ、YOU、今度会ったら矢部さんに感謝しとけよ」

  冗談めかして言った上田は、さらにもう一度、今度はゆっくりと言葉を選びながら口を開いた。
  まだ手袋の感触が残る指を、じっと見つめながら。

  「誰が死んだとしても、悲しいのは事実だ。何度看取っても、慣れるものではないよ。
   だが……君が死んだら、俺は、壊れちまうかもしれない」

  君じゃない誰かでも、こんなに悲しいのだから。
  その言葉だけ、上田は気づかれないように飲み込んだ。

  全てを取り払った奈緒子の肌は、白く、肌理細やかなものだった。
  そっと触れると指に吸い付くようで、自分のものとはまったく違う柔らかな感触に、上田はすぐさま夢中になった。
  上田は幾度も幾度も掌でその肌を味わう。首筋、鎖骨、肩、二の腕、掌、指。
  散々からかってきた奈緒子の平坦に近い胸も、肉付きが皆無というわけではなく。むしろふわふわとした感触は余りに心地よく、指に馴染む。
  その先の色づいた場所に恐る恐る触れると、奈緒子は小さく息を飲んだ。
  少しの刺激ですぐに尖ったのを見て彼女も感じているのかも知れないと思うと、上田は急に照れくさくなった。

  「な、なあ。いいのか?その、俺で」

  「いいわけありません」

  まだ機嫌を直していないのかと顔色を伺う上田に、奈緒子は困惑したような顔を向けた。

  「私、上田さんを好きだなんて、一度も言ったことありませんけど」

  「あ。」

  「あ。じゃありませんよ、あ。じゃ」

  「あ。じゃ。って、お前はコングか、熊本さんか!
  いやでも、いくらなんでもあの展開で、YOUが、この若手天才ぶっつり学教授の上田次郎を好きではないとか、え?嘘、マジで?」

  かなり混乱しはじめた上田を呆れた目で見ながら、奈緒子は大きく溜息をついた。

  「だいっキライです。上田さんのことなんて。自分勝手で我侭で、でかくて、重くて、すぐ気絶して、
  馬鹿で、根性なしで、でかくて、『俺を愛してはいけない』とか言ってたくせに突然『YOUを愛してしまった』とか言い出して、
  人の寝込みに突然キスしたりする、巨根が寂しいでかい上田さんは、嫌いです。」

  「でかいだけ3回も言うことないだろ!?」

  「数えてたんですか?そういう細かいところもキライです」

  「うるせぇ、俺は好きだって言ってるんだ」

  「このナルシスト」

  「そうじゃなくて、YOUが好きだって言ってるんだ!ちゃんと聞けよ!」

  「じゃあどんなところが好きなんですか」

  「聞きたきゃいくらでも言ってやる、言って欲しいのか?」

  「いりますん」

  「どっちだよ!?」

  「まあでも上田さんがどうしても言いたいって言うんなら、聞いてあげなくも無いですよ」

  「よーしわかった、じゃあ言うぞ、今すぐ言うぞ、今言うぞ!?」

  「あ、やっぱいりません」

  「なんなんだ!」

  「だって、そんなのどうでもいいじゃないですか。私は今、上田さんから逃げるつもりはありません。上田さんは、怖いんですか?」


  その頃には、さすがの上田も奈緒子の言葉の真意に、ようやく気が付き始めていた。

  「はっ。怖いわけねーじゃねーかよっ」

  「足震えてますよ」

  「武者震いだ」

  そう言うと上田は大きく深呼吸をして、笑う奈緒子を見据えた。上田はその顔を真下に見下ろすと、今更ながらに、組み敷いたままであることを強く意識して、顔が熱くなるのを感じた。

  「す……好きだ。」

  奈緒子は首を傾げて笑う。だが、その目は笑っていない。じっと上田を見上げて、目を逸らさない。
  綺麗な瞳だと、上田は思う。

  「それだけですか?」

  意地悪な女だ。がめつくて、さもしくて、何もかもが貧相で、友達いなくて、寂しい女だ。
  貧乳で、美人で、スタイル良くて、あの美人女優にそっくりだといわれたりする女だ。

  「ずっと一緒にいてくれ」

  物覚えが悪くて、貧乳で、態度が悪くて、愛想も悪くて、不気味な笑い方をする女だ。
  うまく笑うことが出来ないと悩んでいるくせに、自分にだけは素直な笑顔を見せる女だ。

  「それが人に何かを頼む態度ですか?」

  何か悩んでいることがあったとしても、それを誰にも打ち明けずに自分で抱え込む女だ。
  それを打ち明けて欲しいと願ってしまうほどに、惚れてしまった女なのだ。

  「本音で言うなら、YOUに僕を好きになって欲しい。
  だが、もし、万が一YOUが僕のことを好きでないなら……惚れた弱みだ、僕が、可能な限りずっと、君の傍に居続ける。
   俺は、あれだ、その……寿命とか、年上だから、多分、君より早く死ぬ。
   だから子供も欲しい。そうすれば君を独りにすることはないから。
   ずっと、ずっと君の傍に居たいんだ」

  奈緒子は上田の顔を両手で挟んで、口の両端を摘んで横に広げた。変な顔。そう口の形だけで言って笑う。
  困りきった男の顔を見上げながら、細く器用な指が弾くように離れると、口の両はしに赤く痕が残った。

  「まあ、いいか」

  奈緒子はそう言いながら、上田の髪に指を絡め、自分からキスをした。

続くのか?
最終更新:2008年08月29日 01:35