二倍量 by 389 さん

1-4



高架下に小さな若草色の車があったから、そうじゃないかとは思っていた。
案の定だ。

待ちくたびれたのだろう。
上田は部屋の主の帰還に気付かず、無防備に両手を広げて惰眠を貪っている。
バッグを置き、奈緒子はちんまりとちゃぶ台に座った。
上田が勝手にいれていた茶を奪い、啜る。すっかりぬるく、ちょっと濃かった。

今日は一体何の用事なんだ。

奈緒子は彼の周囲を見回し、怪しい観光パンフレットも焼肉券も散らばってない事を確認した。
ややこしい事件に奈緒子を巻き込もうとやってきたのではないらしい。
だが油断はできない。上田が来ると、ろくでもない事が起こる。
パンの耳が消えたり、錠が増えていたり、変な薬を飲まされたり。
はっと気付いて洗濯物を目で探す。良かった、今回は無事だ。
奈緒子は急いで洗濯物を取り込み、タンスにしまった。
ついでに夕食の準備をする。今日はちょっぴり贅沢に、たぬき丼の味噌汁付きだ。
バイト代が入った楽しい日曜である。
招かれざる大男が不法侵入していたところで奈緒子の幸せに変わりはない。
小さな炊飯ジャーから景気良く湯気があがる。ネギを刻みつつ鼻歌が出る。

出来上がった丼を運んで食べ始めたが、上田はまだ目を覚まさない。
「…あ。大河ドラマ始まってる」
テレビににじり寄り、電源を入れた。テーマ曲が湧き起こる。
音量を調節しようとしたその手首を掴まれた。

「ひゃっ!」

奈緒子は肝を冷やして飛び上がり、上田を睨みつけた。
「お、脅かすなっ」
「うるさいぞ。人が寝てる時にいきなりテレビをつけるんじゃない」
上田はむくりと起き上がり、欠伸をしながら画面を見た。
「……もうこんな時間か。ふっ。つい日頃の激務の疲れが出てしまったようだ」
「自分ちで寝ればいいじゃないですか」
奈緒子はちゃぶ台に戻り、丼をかきこみながら言った。
「そこをどけ大男。テレビが見えない」
上田はくんくんと鼻を動かした。
「珍しいものを食べているな」
上田は奈緒子の丼を覗き込むと立ち上がり、勝手に食器棚から深皿を出してきた。
「you、御飯は。ああここか」
「待て。それは私のおかわり──」
「ケチな事言うなよ。ふーん、美味そうじゃないか」
上田は勝手に御飯をよそい、勝手に鍋の残りを全て浚った。
「こらっ!お前…」
「カツじゃないところが残念だな。貧乏くさい丼だ」

とか言いつつもがつがつ食べている上田にむかつき、ドラマに集中しようと奈緒子はテレビに目を据えた。
もうすぐ最終回なのだ。見逃せない。ついつい箸の動きもおろそかになる。
なのに上田が邪魔をする。
「な、この女優、綺麗だと思わないか。youもだな、女の端くれならせめてこの半分は女らしく」
「黙れ」
「ほら、あの楚々とした仕草。君の駄目なところはだな」
「うるさい」
奈緒子は箸をドアの方に向ける。
「食べたら、とっとと出てってください」
「それもう食わないのか。貰うぞ」
あっという間に奈緒子の丼を取り上げ、上田は残りを口にかっこんだ。



「上田っ」
奈緒子は憤怒の形相で立ち上がった。
上田はもともと無神経で無遠慮だったが、最近どうも目に余る。
「実は、話がある。消すぞ」
上田は手を延ばしてテレビの電源を切り、奈緒子の怒りに拍車をかけた。
「ちょっ、見てるんですよ、今!やめてください」
「安心しろ、youのためにマンションでちゃんと録画してる。後で見せてやるから、まあ俺の話を聞け」
「話?」
上田はでかい目でちらりと上目遣いに奈緒子を見た。
「俺がここに来た理由に興味はないのか?」
「昼寝しに来たんじゃ」
「違う」

上田は咳払いした。
「youは自分でも、女性としての繊細さとか、自覚にかけると思わないか」
「自覚?」
何を言い出すのかと奈緒子は顔をしかめた。上田は頷く。
「さっきの君の反応を見てもそうだ」
「どんな?」
「俺が寝てても放置して、平気な顔で一人勝手に食事をしてたじゃないか」
「いや、上田がいても関係ないし。全然」
上田は不愉快げに眉を寄せた。
「普通優しく揺り起こすとか、声や毛布をかけるとかするだろう。非常識な」
「なんで今更そんな事」
「そこだ」
「どこだ」
「陳腐すぎるぞyou。──どうも俺たちは、付き合いが長過ぎて、互いに馴れ過ぎているんじゃないかと思うんだよ」
奈緒子はげんなりして座布団に座り、箸を置いた。
「じゃあもう二度と勝手に部屋に入らないでください。ついでにすぐ帰れ。バイナラ」
「そうじゃない。あのな、you」
上田はちゃぶ台を押しのけた。
「そろそろ、こういうの、卒業しないか」
「卒業…尾崎浴衣」
「豊だろう。…you。俺はな、こんなくだらないボケツッコミを延々繰り返し続ける今の関係につくづくうんざりしたんだ」
「じゃあ」
奈緒子の口調がからかうようなものになる。
「もう二度とここには来ないでくれるとか」
「何を嬉しそうに言ってるんだ」
上田の眉間に溝がくっきりと浮かんだ。
「君はもう二度と俺に逢えなくても平気なのか」
「…いえ。悲しいです」
「…」
上田はどきりとしたように、顔を伏せた奈緒子を見た。
漆黒の瞳からぽろりと涙が落ちるのが見えたのだ。
「もう二度と上田さんに食事を奢ってもらえないかも知れないと思うと…」
そう言いつつ、わざとらしく彼女は袖に生タマネギの切れを隠した。
「………」
上田の眉間の溝がマリアナ海溝並みの深さになった。




「you。ここらでひとつ、はっきりさせないか」
上田の声は深かった。
「何をですか」
タマネギをちゃぶ台に置き、奈緒子は視線を泳がせた。
「君は俺の事をどう思っているんだ」
「大事な金づ──いえ、大事な──」
「…大事な?」
「大事な……えー、…知り合いです」
「…ガキだな。そうやっていつまでも照れてちゃ駄目なんだよ」
上田はふっと笑ってニヒルに目を細めた。
「いかにジェントリーな俺にも我慢の限界というものがあるんだ。君は選ばねばならない」
「何を」
「このまま俺と、ボケとツッコミを入れ倒す間抜けで不毛な日々を送るか、それとも──」
上田の頬がかすかに染まった。
「お、お、俺の──アレをyouに入れたり出したりする稔り浴衣な日々に移行するか」
「豊かって言いたいのか?ってちょっと待ってください」
奈緒子は唖然とし、上田を見た。
「アレって」
「あ、アレって言ったら…コレしかないじゃないだろ」
上田は恥知らずにも己の股間を指差した。奈緒子は視線をそらした。
「ふざけてるんですよね?」
「真剣だ。で、どうなんだ。俺とセセセセックスするのは、い、厭か?」
「真剣にしててもそんな言い方しかできないのか上田」
奈緒子は脱力して上田を眺めた。
つくづく駄目な男である。
「仕方ないじゃないか。はっきり言わなくちゃyouには伝わらないだろ」
こういうのをセクハラと言うんじゃないかと奈緒子は思った。

一方上田は上田でこれでも至極真面目に、大事なプライドをなげうって奈緒子に真情を伝えているつもりである。
なにせベストを尽くしてプロポーズしても今ひとつ反応が悪く、手ひとつ握らせてくれない女なのだ。
そういう雰囲気に持ち込もうとするとギャグでそらし、いささかもただの腐れ縁的知り合いから脱却できない。
奈緒子の真意が掴めない。
自分の事をスキらしいのはなんとなくわかるのだが、それがどの程度の気持ちかがわからない。
いくら童貞とは言え、いや童貞だからこそ、そろそろ次の段階に進みたい。
そして奈緒子の躯や自分への反応、つまりは彼女の本心を確認したい。
もちろん劣情ばりばりだがちゃんとそういう純情な気持ちもある。
こんな上田を誰が非難できよう。言動は紛う事なくセクハラだが。

「はっきり……じゃあ私もはっきり言いますけど」
「お、おう?」
奈緒子はまっすぐ上田を見た。ちょっと顔が赤い。
「い、いいですよ」
「!!!」
上田は目をこぼれ落ちそうなくらい見開いた。
「──you!!」
奈緒子はさっと身を翻した。躱された上田の長身が台所との境の敷居まで滑っていく。
「ただし、条件があります」
奈緒子は再び立ち上がった。
「条件?」
上田は肘をついて起き上がり、潤んだ瞳で奈緒子を見上げた。
「ど、どんな条件だ。結納金か?婚姻届か?おぅっ、そうか、避妊だな?いいとも」
「違うっ」
奈緒子はますます赤くなり、上田を睨みつけた。
「もっと重大な条件だ!」
上田は不安げに身じろぎする。
それ以上に重大な条件など、彼は咄嗟に思いつけない。
「どんな?」



奈緒子はぴたりと上田を指差した。
「いいか、上田。忘れたとは言わせないぞ、お前がひどい巨根なのはとっくにお見通しなんだ」
「………」
上田は肩を落とした。改めて言われるとややへこむ。
次に奈緒子は自分を指差し、口ごもった。
「そして、私は…その…は、初めてだ。これは非常にまずいシチュエーションです。だろ?」
「…初めて……」
上田は嬉しそうにずれていた眼鏡をはずし、はーっと息をかけて袖で拭いた。
「だよな。いや、そうだとは確信してたんだが……いや……気にしないよ、いいじゃないか、別に」
「良くないっ」
奈緒子は指を振った。
「上田さんは良くても私が良くないんです。絶対痛いに決まってます。死ぬかも」
「死にはしないだろう。それどころか」
上田は含み笑いを始めた。
「ふふっ…ふふふ。馴染んだ暁にはyouの躯は俺無しではいられなくなるはずだ。古今の文献を紐解いても──」
「いやらしい発言はやめろ上田!…そ、それにそれ、な、な、馴染んだら…なんだろっ」
奈緒子はぶんぶんと指を振った。真っ赤だ。
「最初はとにかく死ぬほど痛いって言うじゃないか!しかも、お前は尋常じゃない巨根なんだぞ」
「そうか」
上田は溜め息をついた。
「それで、youはこれまでも俺に隠しきれない好意を示しつつ煮え切らない態度を」
「そっちだって同じじゃないか」
奈緒子はぶつぶつと呟いた。
「プロポーズまでしといて全然……弱気で奥手で嘘つきで根性無しで」

「………」
「………」

二人は互いを盗み見て、相手の複雑な表情を確認した。
「巨根が厭で逃げてただけで、じゃあ、俺の事は嫌いじゃないんだな」
「しつこいぞ上田」
上田は咳払いした。
「あー。…つまり、その問題さえクリアできれば君は俺と…セ、セックスするのも…やぶさかではない…いや、むしろ俺が早く申し出ないのが不思議だったと、こう言うんだな」
「………言うなっ!」
奈緒子は頬を押さえて俯いた。
上田はやっと納得したように目を輝かせた。
「そうか…」
「……」
奈緒子は唇を噛み締めた。
心を言葉でいちいち探られるのは、恥ずかしすぎる。
「やっとわかって安心したよ。君の気持ちが、全然わからなかったんだ」
「あ、安心したのか。じゃあ帰れ」
「そうはいかない。この際だから──」
上田は膝でいざりより、奈緒子の手を握った。
「双方の望み通り一気に事を進めたい。身も心も恋人になるんだ。…やろうぜ、セックス」
「放せっ」
奈緒子は上田のでかい掌を振り払った。なんという恥ずかしい事を口走るのだ、こいつは。
突然訪れた春に、石頭の中身がラブコメモードになっているに違いない。
「you」
上田は気にした風情もなく、さらに手を握ろうとした。
奈緒子はさらにさらに振り払い、急いで後ずさった。

最終更新:2006年11月29日 02:33