星が降る

9-12



「……わからないぞ」
俺は牛乳パックを置いた。
「俺は『お兄さん』だから昼間は侵入できるはずだ」
「侵入って何だ!この変質者!」
山田は唇の端を曲げ、軽蔑したように俺を見た。
「あれは不審に思われないように不動産屋さんに言っといただけですよ。大家さんにはありのままを伝えます」
「ありのまま?」
「お前が赤の他人のストーカーだって」
「違うだろうっ!……しかし。不便じゃないか。ほら…焼肉を奢ってやってもいいという慈悲の心が俺にふと湧いた折などにだな」
「電話すればいいじゃん。23区内ならどこでも歩いていきますよ」
「…だが、世にも不思議な話を聞き及んだ時などには」
「電話っ!!…大体、それって嬉しくないんですってば。迷惑なんだ、変な事件にばかり巻き込むから」
「だが」

「上田さん」
山田がずいとテーブルの上に身を乗り出した。
「じゃあ聞きますけど、上田さんはどんなアパートならいいと思うんですか?」
「そうだな…」
俺は再び牛乳をとりあげ、飲みながら考えた。
「もっと近くに駐車できる場所があったほうがいい。東尾久の高架下のように、気楽にな」
山田はソファに戻り、じろじろと俺を眺めている。
「大家さんはあまりきちんとしてないで、懐柔しやすい人がいい。顔見知りには簡単に合鍵を渡してくれるような」
「……」
「近所には歌好きのバングラディシュ人がいると最高だ。嫌がらせの歌を教えられる」
「……」
「もちろん昼も夜も、気が向けばいつでも自ら出向けて」
「……」
「戸棚のパンの耳を食っても茶を飲んでもメイクをしても、本人以外の誰も咎めない」
「……」
「貧乏な奇術師が家賃を滞納できるくらいの絶妙な額の家賃。肩代わりして利用する事ができるから都合がいい」
「……」
「…あのアパートが取り壊しになったのがつくづく惜しいよ」
「上田っ!」
山田が鬼のような顔で再び立ち上がった。
「黙って聞いていればお前…要するに私を苛めたいだけなんじゃないか!」
「え?そんな事一言も」
「自覚がないのか!」

自覚はある。山田を苛めるのは楽しい。
つかずはなれず適当な場所で、いつまでもこいつの困った顔を眺めていたい、そういうささやかな楽しみはある。

「さびしい奴だな。お前って」
ぽつんと山田が呟いた。
俺は牛乳の残りを飲み干した。
「寂しくなどない。俺は人気者で困っているんだ。この三週間というもの俺が同棲しているという噂で女子学生達が…」
「友達いないくせに」
「いるよ。それにyouに言われたくない」
「どうせ上辺だけの付き合いだろ。この部屋に連れてきたの、私と、長野の母と、あとなんとかいう犯人だけじゃないですか」
「youだって、話し相手は亀と俺しかいないじゃないか」




山田は俺を見下ろした。
その目にはなんとも奇妙な色が灯っていた。
あまり見たくない類の色のはずだが、山田が浮かべているそれはあまり気に障らなかった。
きっと俺の目にも同じ色が滲んでいたのかもしれなかった。山田の表情で俺にはわかった。

「亀のほうがお前より大事だ」
「何言ってんだ。俺だって、youより」
言いよどみ、言いよどんだ事にちょっとうろたえて俺は咳払いした。
「──次郎号のほうが」
「生き物ですらないじゃん」
「悪いか。俺とあいつは一心同体なんだよ」
「……じゃあ」
山田は溜め息をついた。
「いつまでも次郎号と幸せに暮らしてください。私、あのアパート気に入りましたから」
「………」
軽くなった牛乳パックが、山田の溜め息でかすかに揺れた。
「何溜め息ついてるんです」

俺か!?

「これは溜め息じゃない。深呼吸健康法だ」
「……………」
山田の目がとても……この感じは、あれだ…いや…。
寂しそう……?
それとも…切なそう?
…怒っているのか?
いや、悲しんでいるんだろうか…?
「…上田さん」
どれでもあって、どれでもない。

「上田さんって、本当に──意地悪な人です」

山田はくるりと向きを変えてリビングから出て行った。
「you」
「明日不動産屋さんに電話しますから。おやすみなさい」
小さな声は閉まっていく扉の隙間から聞こえた。

 *

サハラ砂漠は地球で一番広大な乾燥地帯だ。その70%が岩石と礫から構成されている。

荒れ地がどこまでも続く静かな世界。
広過ぎるため、入り込んだ人間は空間を把握する感覚が麻痺してしまう。
ただ風が起こってはかすかな水気を奪いさり、別の場所へと消え失せていく。
前後左右の認識もすり減っていく。あるのは天地の区別と自分だけ。
一人きりの旅人の道しるべと慰めは、遥か頭上の大パノラマだ。
地平の果てから昇る太陽、薄れては強まる月、季節を数えて煌めく満天の星。
それらの光は旅人の目の上に惜しげもなく溢れ、乾いて縮んだ躯の影を埋め尽くす。
星は天に微動だにせず、そして無言で。雨の代わりに降るように。




──寝室の天井を見上げ、俺は砂漠の夜空について考えていた。
就寝前にぼんやりと眺めたテレビの特集のナレーションが耳に残っている。
そういえば以前山田のいる場所でタクラマカン砂漠に関係した何か──なんだったかな、ともかく数多い俺の武勇伝の一つを語ってやった事があった。
細かい事は省略するが、あいつ、いつもの如く全然聞いちゃいなかった。
──ふっ。
迷い込んだら出て来る事のできない『死の砂漠』タクラマカンを構成しているのは礫じゃなくて砂だけどな。
おっとまた豊かな知識と教養がはからずも証明されてしまった。
これだから天才は困る。

寝返りをうつ。
眠れない。
一面の砂、あるいは礫。

…いや、いい話じゃないか。
決めるのはあいつなんだし。あいつもいい大人なんだし。
一万二千円。いくらなんでも大丈夫だろう。時給のいいバイトを探せばそれなりに稼げるはずだ。
いざとなれば一度か二度なら貸してやっても──いや、あまり甘やかしちゃためにならないよな。
部屋に入れなければ呼び出せばいい。あいつが言った通り、電話でいつでも呼び出せばいい。

ただし、山田が作る魚の煮付けがもう二度と食えなくなる。それだけが残念だ。
あいつ、居候している弱みがあるから料理していただけだからな。
そういえばこれまで何年もあいつの手料理なんか食った事など無かったのだ。
最初に食うのは勇気が要ったが。何か入っているんじゃないかと──。
いや、全くいい話じゃないか。
もう二度と、リビングに放置されたステージ衣装やトランプをゲストルームに叩き込まなくてもよくなるのだ。
自分のものは自分の占有スペースに片付けるという基本的な生活習慣をとうとう身につけてやる事が出来なかった。
少しだけ残念だ。
だがそれは俺の責任じゃない。
あいつが筋金入りにだらしないだけの話だ。気にするな次郎。

風呂の占有時間を調整しあう余計な苦労ももう二度となくなるな。素晴らしい事だ。
今更少々磨いたところでどうなるものでもあるまいに、山田の奴はとても長湯だ。
それにあいつが髪を洗った後では俺のシャンプーやリンスとは違う甘ったるい匂いに耐えなければならない。
だが、これでもう二度と、脱衣所の扉のガラス部分を覆っているバスタオルを見る事もない。
誰がそんな貧乳など覗くものか。そんなに厭なら自腹を切って銭湯に行け。
…ああ。
もうすぐ君は元通り、銭湯生活に戻れるんだな。

行き場が無かったはずの山田が、自分の居場所を見つけようとしている。
めでたい事じゃないか。心の広い人格者としてはもちろん祝ってやるべきだ。

なのになぜ眠れないのだろう、広すぎる砂漠で空間を把握する能力が麻痺した旅人のように。
──一面の荒れ地。静かに乾いた居心地のいい。

もう二度と煩わされる事はないはずだ。
もう二度と。
もう二度と。

俺は起き上がった。
生理的欲求は感じないが、トイレに行けば眠れるかもしれない。

 *

寝室を出ると廊下に灯りが漏れていた。リビングの扉からだ。
「おい」
中に入るとサイドボードの前にいた山田が写真立てを片手に振り向いた。
後ろにいつものトランクが、開いたままで置いてある。



「真夜中だぞ。早く寝ろ」
「整理してたんですよ。もうすぐ出て行くんですから」
ああ──俺の写真をわざとらしく隠すように立てかけていた父親の写真だ。
「整理するほど荷物ないだろ。夜中だと言ってるんだよ」
「心配しなくてもちゃんと寝ます」
「心配しているのは電気代だ」
「……」
山田はぷっと頬をふくらませ、現れた俺の写真を乱暴に整えた。
「おい。右の角度が低すぎるぞ」
「文句があるなら自分で直せばいいだろ」
全く。
俺は溜め息をついて山田の傍に歩み寄った。

写真を直している俺に山田が話しかけて来た。
「上田。そういえば、どうなったんだ。あの噂」
「噂?」
「私がここに居るのが問題になったって言ってたじゃないか」
「ああ。それなりに下火になったよ」
「……?」
「やましい事など何もないからな。何を言われても毅然とした態度をとっていたんだ。俺の輝かしい学者としての実績が無責任な風聞を押さえ込む日がいつか必ずや来ると信じていたよ。ハッハッハ」
「飽きられただけじゃないのか」
失敬な。
「でも、結果的には良かったですよね」
山田は肩をすくめ、父親の写真を丁寧におさめるとトランクの蓋をばたんと閉めた。
「私も理想通りの部屋を見つけられましたし」
そうだな。
「これも上田さんのお陰かもしれません。一応、礼は言ってやってもいいぞ」
山田は俺を見上げて微笑んだ。
「お世話になりました」
長い髪がさらさら流れて、色気もなにもないトレーナーの肩に波打った。

トランクを持ち上げた山田の肩を俺は掴んだ。

「上田?」
「どこ行くんだ」
「部屋ですよ」
「ここに居ろ」
山田は微妙な角度に眉をあげ、俺をじっと見た。
「ここ、リビングですよ」
「違う。俺の──」
「え」
山田は目を見開いてまっかになった。
「う、上田の、し、寝室…?」
「違うっ」
いや。
同じ事なのか?

俺は混乱して山田を見おろした。
山田も混乱しているらしく、眉をひそめて俺を見あげた。


最終更新:2006年11月17日 22:24