呪文と石

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安アパートの自室に入り、バッグを肩にかけたまま奈緒子は畳にへたり込んだ。
もうくたくただった。

今日は夕食をご馳走になった。
普段奈緒子が行くことのない、人気の懐石料理の店でだ。
連れていってくれた男の膳から奈緒子は簡単に次々とおかずをかっさらう事ができた。
その男つまり上田が時折箸を休め、柄にもなく何事かを考え込んでいる様子だったからだ。
摂取した料理の質と量は普段とは比べ物にならない。
当然奈緒子は上機嫌だった、そこまではいい。

ただその後の展開が少々意外なものだった。
お茶でもどうだと言うのでマンションに寄ったら速攻寝室に連れ込まれたのである。
月曜の夜に彼が誘うのは珍しい。
異性としてつき合い出して二ヶ月ちょっとの彼の情熱は、正直なところちょっとだけ、まあその、悪い気はしない。
だがそれも程よくであればいい話なのであって。

──やりすぎだ、あのバカ。

奈緒子は痛む腰をかばいつつ顔をあげ、目覚まし時計の針を確認した。
午前一時半過ぎ。一刻も早く寝るべき時間だ。
明日、いや今日は滞納している家賃絡みのただ働きをしなくてはならない。
大家のハルの知人が役員をしている子ども会のお祭り会場の一隅で『無料の』マジックショーという今ひとつやる気のでない仕事である。
だが奈緒子はマジシャンだ。やるからには無料だろうがただ働きだろうが全力を…ぐうとお腹が鳴った。
折角摂取した夕食のカロリーをすぐさま上田に奪われてしまったからか、ひどく空腹だった。
奈緒子はちらりと戸棚を見上げた。
バイト料が入る予定の木曜日までは、残っているパンの耳に手を付けるわけにはいかない。
熱すぎるくらい熱く愛された事とは別に、なんだかちょっと切なくなった。

奈緒子はバッグを放り投げ、積み重ねた布団に向かった。







 *

火曜日の池田荘202号室。
「……ほんとに何もないっ」
奈緒子はぺこぺこのお腹を撫でながら、諦めきれないまま戸棚に縋り付いていた。

原因は昨日と同じだった。
どすこい上田だ。
ただ働きを終えて戻ってきた奈緒子が目にしたのは、大事なパンの耳に貴重品のケチャップとマヨネーズをたっぷりつけて貪り食っている大男という一番見たくない光景だった。
怒り狂った奈緒子の剣幕に怯えて何か言い訳していたが、それにしても許せない男だ。
奴にはおやつ程度の感覚でも、奈緒子にとってはパンの耳は主食であり主菜なのである。
しかもだ。
悪かった許してくれといいながら上田は彼女の肩や腕に触れ、次に長い髪を手に巻いたり頬を撫でたりしはじめ、更には腰を抱き寄せた勢いで唇を奪いあまつさえ壁に押し付けスカートを捲り上げ挙げ句には舌や吐息や指で。

───平日に二日続けてなんて。有り得ない。

昨夜の情事で疲れ気味なのか上田は巨根の分際で彼女に騎…いや、細かい経緯はどうでもいい。
空腹のまま日中必死で愛想笑いをしていた身にはかなりの負担の運動だった。もう本当に勘弁してほしい。

そもそも火曜日の夕方に彼がここに居ること自体が不思議である。
いくら上田が暇そうに見えるといっても彼は学者で仮にも大学教授なのだ。
崇高なる権利である己の研究はどうした。
明日を担う若き学生に対する教育指導の責務はどうなる。
日頃愚痴と見せかけては自慢たらたら奈緒子に語る教授ゆえの雑用だってそれなりにあるに違いない。
そのあたりをちくちくと思い出させてやったところ、上田は慌てて服を着て帰っていった。
明日の夕食、パン耳の償いに焼肉を奢ると言い残して。

奢りは当然だが、とりあえず今後はパン耳の保管には厳重に注意しなければ。
あともう一つ、疲れている時にはどんなにねだられようとこの体位は断固断らねばならない。
奈緒子はそう決意した。
さもなければただでさえスレンダーな躯がさらにスレンダーになってしまう。

せめて上田の忘れた茶菓子でも転がってないかと棚を隅々まで探ってみたが、何も見つける事はできなかった。
仕方なくお茶をいれて啜り、奈緒子は今日も空腹のまま眠りについた。







 *

さらに翌日の池田荘同室、水曜日。
「だめ…もう死ぬ…お腹減った」
昨日一昨日と変わらぬ呻きを漏らしつつ、奈緒子は今日も自室に転がっていた。

今日は元凶の男が傍にいる。
乱れた服と呼吸を整えながら気怠そうに身を起こし、ちゃぶ台の前に座った上田は勝手に茶をいれはじめた。
「茶の葉が急に減ったんじゃないか、you」
「夕べ飲んだんです。上田がパンの耳勝手に食うから」
彼はふうふうと息を吹きかけたまだ熱い茶を一気に飲み干し、大きく吐息をつくとすぐに次をいれはじめた。
さきほどの運動で相当喉が渇いたのだろう。奈緒子も同様である。
「あああれか…お詫びに美味い焼肉を食わせてやっただろ。な」
「そんなの、今ので全部どこかに消えました!私にもお茶をよこせっ」
奈緒子はしどけない半裸の躯を気にしながらようやく肘をついて起き上がった。
喘ぎ過ぎたのか頭がガンガンする。腰が慢性化しそうに痛い。躯の芯にも鈍痛。体中の骨がきしんでいる。
奈緒子の大きな目は潤みきり、あたりには服や下着が散乱していた。
濃いキスの痣がついて上気した肩や背中に長い髪が振りかかり、おざなりに敷かれた布団は乱れ、コンドームの空袋や丸めたティッシュの山が畳に盛り上がり、つまりは落花狼藉の有様だ。

───平日に三日連続。本日も二回立て続けの猛攻。有り得ない。

「上田さん。一昨日から変ですよ」
「はい?」
広い背中がぎくりとしたように固まった。
「……何かあったんですか?」
「…………」
「明日も大学ありますよね、講義とか研究とか会議とか。なのにこんな時間まで──」
上田がぼそりと言った。
「厭か?」
奈緒子は詰まった。
「感じまくってたじゃないか」
「うっ…」
奈緒子は赤くなったが、これではいけないと視線をあげた。
「あのねっ!…こんな事続けてたら躯壊しますよ。そっちもだけど私も、今週はまだバイトが」
上田は茶を啜り、またぼそりと呟いた。
「………you。明日、いやもう今日か………夜は空いてるか?」
「話聞いてんのかお前」
奈緒子はさらに赤くなった。
「どうせ何かくだらない事企んでるんだろ。白状しろ」
彼はのっそりと立ち上がった。むやみに高い場所から低い声。
「じゃあまたな」
「上田!」
奈緒子は追いすがろうとしたが、濃厚な運動後の華奢な躯はふらふらして、持ち主の言う事をきかなかった。

結局その日も上田の残した出涸らしの茶を啜ったあと、奈緒子は気絶同然に眠り込んだ。





最終更新:2006年11月16日 23:50