中途半端な広さの公園だった。
古くさい水銀灯が瞬き、水の出ていない噴水周りのベンチにはひとっこ一人いない。
寝静まった古い住宅街が背後に控えている。コンビニの灯りが遠い。
深夜一時近くともなると薄手のカーディガン一枚では結構冷える。

「上田。…上田さんっ」
「しっ。うるさいぞyou」
邪険に手を振る上田のジャケットの裾を奈緒子は掴んでひっぱった。
「いつまでこうしてればいいんですか。だんだん寒くなってきました。これ寄越せ」
上田は振り返り、早口に言った。
「風邪をひくから嫌だ」
「私がひいてもいいんですか」
「youは大丈夫だ。昔から言うだろう、なんとかは風邪をひかないと」
「なんとか……言いたい事があるなら、はっきり言えばいいじゃないですか」
「バカは風邪をひかない。なんだ、わかってるんじゃないか。ハッハッハ」
「あっ、こら、しっ!笑うなバカ上田っ」
奈緒子は片手を伸ばして上田の口を塞いだ。

現在張り込みの真っ最中だ。
上田のところに相談にきた例によってうさんくさい事件の相談者がいる。
例によって泣きついた上田に奈緒子が巻き込まれた。
例によって凸凹と事件を調べて行くうちにその相談者の言動こそが怪しいという事がわかった。
ゆえに例によって躯をはった見張りをしているという現在の状況である。
一人で見張ればいいじゃんとぶつぶつ言う奈緒子をひっぱって上田は相談者の家が見える公園の、この奥まった茂みに隠れた。
そして三時間。

「動かないな」
上田が呟いた。
「きっと今夜はもう何も起こらないんですよ。じゃ、あとは任せましたから」
立ち上がろうとする奈緒子の腕を上田は素早く掴んだ。
「どこに行くんだ」
「帰るんですよ」
「大学院まで出た俺に一人で見張りをさせる気かっ」
「大学院関係ないじゃん」
「こんな暗くて寂しい場所に、お、俺を、たった一人で」
上田はそわそわと陰気でうら寂しい当たりの景色を見回した。
心なしか唇が震えている。
「はい?……あのね、これもともと上田さんが引き受けた事件じゃないですか。私じゃありません」
「そうか。youは焼肉食べ放題十二枚綴り券が欲しくはなくなったのかそうか」
奈緒子はちょこんと元の場所にしゃがみこんだ。
「私がいるから大丈夫ですよ、上田さん」
「…………」

その奈緒子の横顔をちらとライトが照らした。
「伏せろっ」
「なっ」
上田に頭をおさえられ、落ち葉の上につっこみそうになった奈緒子は辛うじて腕をつき、回避した。
「なにするんだ!」
「しっ。見ろ、警官だ」
公園横の舗装路を自転車が遠ざかって行く。
「今の俺たちはどう見ても不審人物だからな。職務質問なんかされたくはないだろう」
「別に」
「確かに君は平気かもしれない。だが俺にはな、高い社会的地位と立場ってものがあるんだよ」
「……」


「だが……」
上田は相談者の家の窓を見上げた。灯りはしばらく前に消えた。静かなものだ。
「これだけ待っていても動きがないという事は──もう少しで一時か──寝てしまったのかもしれない」
「でしょ?もう帰ろ帰ろ上田」
奈緒子が唆すと上田は鼻を啜った。急に寒さが身にしみてきたらしい。
「よし、じゃあ今夜のところは帰るか」
「賛成です」

二人にしては稀に見る早さで意見が一致し、立ち上がった時だった。
さっきの警官が自転車で戻ってくるところが見えた。
とっさに奈緒子を抱き寄せた上田は躯を廻して顔を隠した。
「なにすっ」
抗議の声はベストの胸に押し当てて塞ぎ、上田は器用に斜め後ろを盗み見た。
警官がうさんくさげにちらちらとふりむきながら去って行く。
「……気付かれたか?」
呟く上田の足の甲を、靴の上から奈緒子が渾身の力で踏んだ。
「おうっ!」
「な、なな、なんて事するんですか!いきなり」
奈緒子はそわそわと上田から離れ、憤然と睨みつけた。
「カップルのふりをしただけじゃないか。そんなに怒ることないだろう?」
「怒りますよ普通!しかもこんなひとけのない場所で──」
「ふっ、安心しろよ。youと抱擁したって俺が興奮するなんて事はありえない」
「上田!」

奈緒子の眉が角度を増したその瞬間、上田の背後でもの錆びたブレーキ音が響いた。
「…そこの人。何してるんだ」
パトロール中の警官である。気になってもう一度戻って来たのだろう。
「あのですね、この男が私を──」
「you!」
上田はジャケットの襟を立て、背中を丸めて奈緒子の影に隠れようとした。
哀れを催すほど慌てふためいた動きである。
「大丈夫ですか?二人とも、こちらにきなさい」
懐中電灯を取り出しながら警官が奈緒子に言った。
声に冷静な緊張感が滲んでいる事に奈緒子は気付いた。
見るからに怪しい様子の上田に不審を抱いたに違いない。無理もない。

「あ、あの」
何か考えるひまもなく、奈緒子は口走った。
「大丈夫です。痴漢や物盗りじゃありません。この大男は──その…」
ちょっとためらい、奈緒子は呟いた。
「こ、恋人なんです。あの、私の」
「は」
「ぐ」
警官はけげんな顔をし、上田が襟の影で喉を詰まらせたような声を出した。
「そうですか。しかしなんでこんなところで──あそこにとめてあった車は君たちのか」
警官はまだ納得しない様子だった。
自転車をおりて近づいてこようとするので奈緒子は急いで上田をつつき、低い声で囁いた。
「顔をあげろ。こそこそするから余計怪しまれるんだ!」
「だ、だが。俺は有名人だから痴漢なんて勘違いだけでも──マスコミが──ああ、破滅だ」
「誰が有名人だ!──あの、実は…」
奈緒子は声を張り上げて警官の動きをとどめるように手を振った。
「…私たち、交際を両親や親戚に反対されているんです。身分違いなんです──この大男は私のうちの奉公人で──」
「おいっ」
「黙れ上田。…それで、あの、あ、逢い引き」
「時代劇か」
「えーと……そ、そう。デートしてたんです。こっそり」
奈緒子は急いで上田の腕にすがりつき、揺さぶった。
「ね。次郎」
警官は奈緒子のその積極的な仕草でやや表情をゆるめた。


「困ったり、脅されているわけではありませんね?」
「いいえ。次郎、ねっ、一緒にいられて楽しいわよね」
「は、はい。えー、な、奈緒…」
「お嬢様でしょっ」
「………お嬢様」
「次郎」
「お、お嬢様」
揺さぶられっぱなしの上田の頼りない姿に、警官は頷いた。
「そうでしたか」
上田の口が開いた。
「なぜ納得するんだ、おいっ」
「黙れ上田!」

もごもごとつっこみあう二人が警官にはそれなりに仲良さげに見えたのだろうか。
彼は懐中電灯の輪をさげた。
「ま、そういう事でしたら──しかし時間が遅いのでね、犯罪に巻き込まれないとも限りませんし、おうちの方も心配なさってるでしょうから。もうお戻りなさい」
「はい」
奈緒子は精一杯の笑顔を作った。愛想笑いは苦手だがこの場合そんな事は言っていられない。
「そっちのあんたも。なんだか事情があるにしても、お嬢さんを責任もってお連れしなさいよ。いいね」
「…はい」
上田の声は小さかった。


「……あのおまわりさん、上田さんの顔、わからなかったみたいですね」
公園の入り口まで並んで歩きながら、奈緒子はそっと上田に言った。
「『どん超』も『なぜベス』も読んでいないという事か、勉強不足も甚だしいな。いつから日本人はこんなに知的好奇心のない民族になってしまったんだ。嘆かわしいよ全く」
「読んでる人のほうが怪しいんですよ。それより、ほら」
「なんだ」
「まだ見送ってますよ、あのおまわりさん」
「俺の本を読まないだけあってyouのように性格がひねくれているようだな」
「こだわるな上田。器が小さいのがバレるぞ」
「………」
「まだ見てる」

上田は、ぐいと腕を突き出した。

「なんですか」
「………ふり」
上田は怒ったような声で言った。
「ふり…フリオ・イグレシアス?」
「しりとりじゃない。ふりだ、ふり。……恋人の」
「…………」
「嘘は得意だろう、you」
「……デザートつけてくれますか?焼肉のあと」
「よし。一番安い奴」
「ケチ上田」
奈緒子はジャケットの腕にそっと手を絡めた。
上田の足取りが少し早くなったのには、別に意味などないだろう。

行く手に、ひっそりと待っている次郎号が見えて来た。





運転席に落ち着いた上田は深い溜め息をついた。
「──それにしても危うかった。ワイドショーの格好の餌食になるところだ」
「『有名大学教授深夜の公園で呆れた痴漢行為。被害者は超実力派美人マジシャン』って感じですかね」
「おいっ!you、黙って聞いていればさっきから」
上田の声が大きくなった。
「言うに事欠いて事実を歪曲しまくりやがって。誰が美人マジシャンだ。誰がお嬢様だ、誰が奉公人だ。え?」
「事実じゃないですか」
「どこの国の事実だよ!」
「言っちゃった者勝ちじゃないですか?特に上田さん見てるとそう思いますけど」
「どういう意味だよ」
上田は口をひん曲げた。
「俺が有名大学教授でベストセラー作家で世界的天才物理学者なのは紛れも無い事実だ」
「…………」

奈緒子はうんざりして欠伸をかみ殺した。
事実かどうだか知らないが、深夜に上田のうっとおしい自慢話を聞きたくはない。
「どうでもいいじゃないですか。さ、帰りましょうよ」
「大事な事じゃないか。……一度、youにはよくよく言ってきかせてやらなければとは思ってたんだ」
上田は奈緒子に向き直った。
とはいうものの狭い車内なのでわずかに躯の向きを変えただけだ。

「いいか、常日頃のyouの言動には俺に対する尊敬の念というものが窺えない」
「いやそもそも尊敬してないし」
「そこが問題だ!なぜ常に俺という人格者の傍らにありながら、あえてその立派さに気付かないという真似ができる?」
「……あー。ハイハイハイわかりましたよ」
奈緒子はつくづくうんざりした。
上田は執念深いと評したのは確か矢部刑事だったが、それは当たっていると奈緒子は思う。
「ハイは一度でいいんだ」
「ハイハイ」
「君は俺を馬鹿にしているのか」
「そうですよ」

はっと口を閉じた時には遅かった。
横で上田の鼻と唇の端がぴくぴくとひきつっている。
こういう至近距離で手の開いている状態の大男を怒らせるのはいくら相手が上田でもあまりいい気分のものではない。
奈緒子はぎこちなく笑ってシートベルトを引っ張った。
「う、嘘です。尊敬してるに決まってるじゃないですか。上田さんって頭いいし」
「……そうか」
上田の表情はすぐに和らいだ。やっぱり単純な男だ。
奈緒子はさっき一瞬感じた殺気が気になったが、ここぞとばかりにだめ押しした。
「上田さんの事立派だなあって、いつも思ってますよ。傍に居る事ができて幸せです」

「……………you」
「はい?」
上田は奈緒子の膝の横のシートに掌を置いた。
「……」
またなにかしくじったような気がする奈緒子だが、眼鏡越しの上田の目を見てその理由がわかった。
「あの。距離」
「………」
「距離近くないか上田」
「もともと近い。小さい車だからな」
「それはそうだけど……おいっ、あの……」
落ち着かない。


「嘘だろ」
「え?」
上田が笑わない目で奈緒子を見た。
「立派だなんて思ってないだろ、youは」
「……ええ、まあぶっちゃけそうなんですけどね。エヘヘヘ!」
笑ってごまかそうとして、奈緒子はまた目を泳がせた。
なぜ上田はさっきから、圧力をかけるような視線を送り続けてくるのだろう。
嫌がらせにしても長過ぎないか。

「上田さん」
「………」
「上田ってば。どうしたんだ。あの…帰りましょうよ」
「………」
「…さっきのおまわりさん、また来ますよ」
「………」
──いつもなら、とっくの昔に上田はひっこんで、ぐずぐず文句を言いながら次郎号を運転している頃なのに。
無言のまま睨みつけてくる上田に、奈緒子はなぜか強く出る事ができなかった。
怒っている──わけでもなさそうだった。
それなら上田はすぐに口に出すし、こんなに近くに来たりしない。
怖がらせようとしているわけでもないだろう。大声も出さないしおでこを叩くわけでもない。
ただ、でかい図体で鼻息がかかるくらいの至近距離でじっと睨みつけているだけだ。
「ね、上田。わかったから、早く車──」
「なにがわかったんだ」
「う」
奈緒子はシートベルトを手放した。不安だ。
なぜ上田ごときに睨まれただけでここまで不安になるのかよくわからないが、ひどく不安だ。
「な、何考えてるんだ、上田」
「ほらな。youは嘘つきだ。何もわかってないじゃないか」
上田は鼻で笑った。なのに目にはやはり笑いのさざ波すらたってない。

居心地が悪い理由がわかって、奈緒子はまじまじとそのでかい目を眺めた。
上田は真剣なのだ。
なんだかわからないがひどく真剣に奈緒子に何かを察してもらいたがっていて、なのに何も言おうとはしない。
「上田さん」
「………」
「い、言いたい事あるんなら、さっさと言ってくださいよ。睨んでないで」
「………」
「……い……いい加減にしろっ…」
奈緒子は肩で息をつくように顔を背けた。
「そんなだからいい年していつまでたっても女の人の手も握れないんですよ、この弱虫の童貞男め」
「山田」
「……はいぃ?」
奈緒子の声は変に間延びして、引き寄せられた広い胸で止まった。

「!?」

奈緒子の頭は爆発しそうな勢いで現状を分析しようとした。
できなかった。
奈緒子にも苦手な分野はある。上田絡みだと尚更だ。

「卑怯だぞ上田!」
とりあえず叫んだ。
もがもがと口に入りそうなベストの布地を唇で押し、両手でもがいて当たった場所にしがみつく。
「に、逃げ場のないとこでこういう事しちゃいけないんですよ!そんなだからますます女の人に──」
握ったものが上田の固い二の腕だと気がついた。
激しい鼓動が奈緒子を押している。自分のかと思ったが、上田の胸から響いてくる。


「こらっ欲情すんな上田!い、いくら私が美人で胸が大きくて──」
「何もしない」
おしつけられた胸を通して上田の声が奈緒子の耳に響いてきた。
「何もしないよ…安心しろ」
「………安心って……」
奈緒子は眉をしかめた。安心って、何をどう安心しろという意味なのだろう。
「これは、お礼だ」
上田の声が響いてくる。
「……さっき、君の嘘で助けてもらっただろ」
「お、お礼?」
かっと奈緒子の全身が熱くなった。きっと頬は完熟林檎みたいに真っ赤になったに違いない。
上田に見えなくてよかったと思う。
「上田、お礼ってのはもっとわかりやすくて役に立つものじゃないのか。現金とか、食事とか、金券とか、菓子折とか。こ、こんなのお礼でもなんでも──」
「嬉しくないか?」
「……………」
奈緒子は段々混乱してきた。
上田の言うこともやってることもわけがわからない。
どこまで本気でどこまで真剣でどこまでが冗談なんだろう、そしてどれが嘘なのか。

「金も食事も、家賃だって何度も払ってやったじゃないか。それでも君には伝わってないんだろう」
「………」
「犬や猫だって、抱き締めてやれば安心する。温もりは哺乳類共通のコミュニケーションだからな」
「はい?」
「伝わるやり方で伝えてるんだよ。──そうすればyouも俺という人間を尊敬するに違いない」

バカかこいつは。
いやむしろバカだこいつは。

奈緒子の頭の霧は即座に晴れた。
単純バカの上田次郎、これだからいつまでたっても童貞で女性の手も握──いや、現に奈緒子を抱き締めてはいるがそれは犬猫への感謝の仕方と同様に認識しているのだろうから数には入らないに違いない。
同時に無性に腹がたつ。
ならばこんなに鼓動を高鳴らせるな。
そしてうわずった声を出すな。髪の匂いを嗅ぐな。フンフンと鼻息をするな。抱き締めるな!

「ううう」
奈緒子は肩をひねり、腕を曲げて上田の胸に掌を押し付けた。
「どうした」
「ううっ、うううーーーーっ」
「暴れるな、狭いんだから」
「ううーーーーーっ、がるるるうーーーーーーー」
「しつけの悪い犬だ…」
「犬じゃないっ!放せバカ上田!!」
「嫌だ」
上田のうわずった声はびくともしなかった。
「君が俺を尊敬するようになるまではな」
「誰が尊敬するかっ!えーいこのバカチンが!!」
「じゃいつまでもこのままだ…」
「………ねえ上田さん?」
「何だ」
「尊敬してますよ。すっごく。もう特上骨付き壷漬カルビ並に」
「嘘だな」
「………ううううーーーーーーーっ」
「ほらみろ」



最終更新:2006年10月25日 00:50