鎖 by ◆QKZh6v4e9w さん



1

「それじゃ奈緒子。お母さん、明日はお昼食べて帰るから」

台所に声をかけ、山田里見は框から小さな風呂敷包みを取り上げた。
「お気をつけて。お母さん」
「あら、上田さん。お見送りなんてよろしいのに」
玄関先までのそのそとついて出てきた大男に里見は微笑んだ。
「ほんとに、慌ただしくてすみません。…『大事なお話』はまた明日戻ってから、ゆっくり、じっくり、たっぷりとうかがいますので」

「あ、いえ」
上田次郎は恐縮したように小腰を屈めた。
鴨居に遮られていた視界に、土間に立つ里見の笑顔が入る。
「突然伺った僕が悪いんですから、お気になさらず。どうぞお友達の皆さんと楽しんできてください」
「ありがとうございます。…滅多にない機会なものですから、積もる話を一晩中語り合おうねって…、もう、楽しみで。じゃ、先生、申し訳ありませんけど、留守中よろしくお願いいたします」
丁寧に頭を下げる里見に上田は愛想よく頷いた。
「勿論です。後の事はどーんとお任せください! 行ってらっしゃい、お母…」
「どけ上田!……お母さん!」
『どーんと』で反射的に拳を振りあげかけた上田の大きな図体を押しのけ、後ろから奈緒子が飛び出してきた。
里見に借りた割烹着で濡れた手を拭いている。夕食の支度をしていたのだ。
靴下の上から下駄をひっかけ、土間の隅の暗がりまでぐいぐいと里見の袂を引っ張った。

「どうしたのよ、奈緒子」
里見のけげんな顔に、奈緒子は声を潜めて囁いた。
「お母さんってば、どうして私じゃなくて上田に…」
「奈緒子」
途端に鋭くなった里見の目に奈緒子はびくっとし、渋々言い直す。
「…上田さんに留守番任せるの。おかしいでしょ」
「そうかもしれないけど。…あなたよりよっぽど頼りになりそうじゃない」
「ええっ?」
「だって、空手がお強いっていうし、何でもよくご存じだし、男の人だから力持ちだし」
里見はけろっと数え上げ、むくれている奈緒子の背中に片手を置いて引き寄せ、顔を近づけた。
「……それより奈緒子。お母さん、なんだかわかっちゃった。上田さんの『大事なお話』の中身」
「…えっ」
奈緒子はぎょっと母を見た。里見は含み笑いをしている。
「うふふ。だって今日の上田さん、すっごくおかしいんだもの…誰だってわかるわよ」
「……そう…だっけ」
奈緒子は里見の微笑から視線を逸らしつつ上田の様子を回想した。

 門から玄関に向かう間ずっと、同じ側の手足を揃えて交互に動かしていた上田。
 里見にお辞儀を繰り返し、そのたびに玄関梁に額をぶつけている上田。
 上がり框で足を踏み外し、豪快に土間へと転がり落ちる上田。
 勧められた座布団と間違えて、手土産の羊羹の紙袋に座る上田。
 熱いお茶を一気にあおり、舌に火傷を負った上田。
開口一番、現代物理学の歴史と展望、自分の研究テーマの社会的意義及び高尚さについての演説をはじめた上田。
 一時間以上もそれを続けた挙げ句、里見に外出の約束があると知ると脱力して畳に崩れ落ちた上田…。

奈緒子は口元を歪めた。
何故こうもナチュラルに怪しい行動ばかり繰り出すのだ。


2
「……う、上田さんはいつでもおかしいんだけどね……エヘヘヘ!」
「お母さんは賛成よ、奈緒子」
ごまかし笑いの途中で奈緒子の顔はひきつった。
じっと里見が見ている。
「上田さんなら安心してあなたを任せられるの。あの人はきっとあなたのための、強い鎖になってくれる」
「………鎖……?」
奈緒子は里見にいぶかしげな視線を返した。
「…山田─いや、奈緒子─さん。お母さんと何のお話だ?」
上がり框から上田がそわそわと声をかけてきた。

里見は目に微笑を翻し、奈緒子に一層顔を近づけた。
「大丈夫。あの人の傍にいなさい」
「…………お母さん」
「……………」
「…そんなのどうし」
「なーんて言うとどうせ奈緒子は文句を言うのよね。『そんなのどうしてお母さんにわかるのよ』って」
里見は喉の奥で笑った。
「でもね、わかるんだから仕方ないじゃない。……私は、奈緒子のお母さんなんだから」
むっと奈緒子は唇を結んだ。頬が上気していくのがわかる。
見透かされた不愉快からではない。
どうしようもなく気恥ずかしくて照れくさくて──温かい。

「おい山田!…あのですね、お母さん?…そこでひそひそと、何をお話……」
上田がつま先立ちをして躯を半身にし、こちらに耳を傾けているのがわかった。
「うるさいぞ上田。聞き耳を立てるな!」
奈緒子は染まった顔をあげ、里見の肩を掴んで押した。
「お、遅くなるわよ、お母さん。お泊まり会──楽しみにしてたんでしょ」
里見は押し出されながらふふっと笑った。
「ええ。でもね、お母さん明日の午後もとっても楽しみ。ねえ奈緒子、上田さん、明日はちゃんと──」
「お母さん、ほら。急がなきゃ」
框で上田が焦っている。
「あ、あのですねお母さん!今、僕の名を…」
「黙れ上田」

里見の躯を敷居から押し出し、奈緒子は家の内を振り返った。
上田が眼鏡の奥の目をぎょろりと光らせて声を潜めた。
「おい、…何の話をしてたんだよ」
「……暗闇虫」
「嘘つけ!今確かに俺の」
「それより、もうすぐ晩ご飯だから。お前は荷物を片付けてろ。上田、駆け足!」
号令をかけ、奈緒子は戸締まりをしようと敷居に向きなおってのけぞった。
里見がニヤニヤして立っている。
「まっ、まだいたの、お母さん」
「あらあ、ごめんなさいね。やっぱり小雨が降りそうだから、傘持って行こうかなと思って」
奈緒子は急いで傘立てから一本抜き出し、母に手渡した。
「はい。これでいい?」


3

「ねえ奈緒子」
傘を掴みながら、ずいと里見が身を寄せた。奈緒子は思わず後ずさった。
「あのね──お母さんの前だからって、いつまでもそんなふうに照れてちゃだめなんじゃないの」
「…はい?」
「たまには愛情をこめて優しく接してあげなきゃ。釣られた魚だってねえ、厭になって逃げちゃうんだから」
「釣…ちがう違う!あのねお母さん、どっちかっていうとそれは上田…上田さんのほうが…!」
奈緒子は慌てて背後を確認した。
上田は奥に去ったらしく、もういない。
「奈緒子」
奈緒子のしどろもどろの抗議は無視し、里見が声を潜めた。
「まさか、上田さんと二人っきりの時もその調子なんじゃないでしょうね。男の人ってね、奈緒子が思ってるほど──」
「う、うるさいっ。余計な心配しなくていいの!早く行け!」

引き戸を閉じて里見の高笑いをしめだし、奈緒子は頬を強く抑えた。
「おい、you」
奥から上田が呼ぶ声がする。
「布団はどこに敷けばいいんだ!?君の部屋、どこだ」
抑えた頬が熱い。発熱したわけではない。
奈緒子は呻いた。
「…まったく、もう…!」

 *

夕食のカップ焼きそば大盛りを食べ終わり、上田に五右衛門風呂を沸かす任務を与え、箸や湯のみを洗い終え──奈緒子は座敷にへたり込んだ。

疲れた。

多事多端な一日だった。
朝は科技大の研究室で上田がプレゼントしてくれた特注品の装着技術の習得にかかりきり、昼は長野に向かって違法なスピードで爆走する次郎号の助手席に座りっぱなし。
実家に着いてみれば意気地なしの上田の挙動不審に心臓を悪くし、さらに『ごりっとお見通し』の里見にからかわれ──。
「……明日も…かあ……」
奈緒子は割烹着をのろのろと脱ぎ、座卓に突っ伏した。
廊下に体重ののった足音がする。
「おい。風呂沸いたぞ。ああ…焚き口暗くて怖…いや、もういつでも」
「んー。お先にどうぞ、上田さん……」

沈黙。

奈緒子はそっと顔をあげた。髪の隙間越しに、上田がこっちを見ているのがわかる。
「何?」
「……寂しいから、一緒に入らないか?」
「あのねっ」
奈緒子は躯を起こした。手間のかかる男だ。
「子どもじゃないんだから、お風呂ぐらい一人で入ってくださいよ」
上田は傷付いたように眼鏡の奥で目を見張った。
「you。こんな経験はないか。風呂場で屈みこんで髪を洗っているんだ。すると誰もいないはずなのに背後からじーっと…見知らぬ誰かが覗き込んでいる気配がする時が」
「変質者か」
「違う!」
「上田さんを覗く人なんていませんって。それじゃ」
奈緒子は立ち上がり、座敷を出た。上田が後からついてくる。
「おい、じゃ、じゃあ、脱衣所の前で俺があがるまで待っててくれよ。それならいいだろう?」
「上田、お前…」
奈緒子はちらっと振り向いた。自然に頬が緩む。
「本当に、怖いんだな…」
上田の目に一瞬焦りが浮かんだ。
「違う。ただ、さっき覗いてみたんだが、ここの風呂場は広大すぎる。迷子になりそうで、だな」
「なるわけないじゃん」
「遭難したらどうするんだ!youは世界の物理学会に取り返しのつかない損失を与えることになるんだぞ!」
「そんな事になったら、矢部さんに電話して捜索隊を出してもらいます。早く行けって」



「だがな、you」
ぐずぐず言う上田に、奈緒子はふと顔をあげた。
高い位置にあるびくついた表情を見上げる。
「上田さん」
「ん?」
「──部屋で待ってますから」
上田が立ち止まった。口が忙しく開閉した。
何かに似ている…瀕死の金魚にそっくりだ。
「…you…?」
奈緒子は声をやや小さくして、続けた。
「だから早く先に、お風呂に入ってさっぱりとしてきてほしいんです」
上田のぱくぱくがやんだ。
口を閉じ、じっと奈緒子を凝視している。
彼女は声をもっと潜めた。
「…ね。わかった?」

上田が拳を握りしめたのが見えた。
肘の内側にくっきりと血管が浮かんでいる。
「わ、わかった…完璧にな。待ってろ、you!」
そのまま着替えも持たず廊下を走り去る上田教授の後ろ姿は、カール・ルイス並にフォームが決まっていた。

 *

「ふ。──ゾウリムシ」
見送りながら奈緒子は溜め息をついた。
案の定角を曲がりきれず、廊下の果てで柱に激突する音がした。
上田は建築物にぶつかり慣れているから放っておいても平気だろう。

「風呂の順番を待ってるって意味に決まってるじゃん、ターコ。何想像してるんだ。弱虫。巨根。ドスケベ。バカっ」
毒づきながら荷物を整理しに部屋へと向かう。
からりとふすまを開き、中を一瞥した奈緒子の膝から力が抜けた。
「……………」
部屋の中央に二組の布団がある。上田が敷いたに違いない。
ぴったりくっつき、重なりあった縁が盛り上がって見える。
枕はもっとひどい。
完全に積み重なり、笑天の座布団四枚並みの厚さになっている。
「どうやってこれに頭を置く気だ、上田っ」
奈緒子は急いで布団をずりずりと引き離した。
「な、なんでこんなに元気なんだ、あいつ?……今日は、もう…わっ!ああっ、だめだ、思い出すな私!!」
研究室で上田に苛められた今朝の出来事を思い出しかけ、奈緒子は焦って頭を振った。

最近上田はおかしいのだ。
常に発情している。奈緒子に向ける視線にしばしば濃い色気が滲んでいる。
それは確かにもともとぶっつり、ではない、むっつりスケベな男だったかもしれないが、今まで何年も一緒にいて、さほど上田に男を感じたことはなかったのに──奈緒子はふいに赤くなった。

もともとおかしかった上田がもっとおかしくなったのは、およそ一ヶ月前からだ。
正確に言うと奈緒子と寝てからということになる。
そして、奈緒子が上田にひどく男臭さを感じるようになったのも同じ頃。
つまり、上田に抱かれてから。
上田の発情をいちいち感じ取るということは、奈緒子もその手の雰囲気に敏感になっているという事であり…。


最終更新:2006年09月22日 20:29