ここはアパートの狭い一室。啓太とようこは二人、夕食もすんでくつろいでいた。
ようこは今日の出来事を喜々として語っている。
啓太は聞いている風でもなさそうに、ぼんやりとテレビを見ている。
「でね、商店街を入ったすぐのケーキ屋さん、なんだかピコピコうるさいお店になってたのよ」
「そういやあそこ、ゲーセンになったんだっけか」
態度はともかく、聞いてはいるようだ。

「きゃん」
テレビから犬の鳴き声がして、ようこの肩がぴくんと震える。
ようこは犬が苦手だ。犬神なのに。

啓太は黙ったままテレビのリモコンに手を伸ばし、チャンネルを変えようとする。
「あっ、ケイタ。気にしないで」
彼の行動に気づいたようこが、何でもないといったように首を振る。
「実物じゃなければ平気だから」
「そっか」
伸ばした手を引っ込める啓太。テレビからは、止まない犬の鳴き声。
「ねぇ、ケイタ。これ、何してるの?」
そう言って、ようこはテレビの画面を指さす。
画面には、ゲージに入った何匹もの小動物と、そのうちの一匹を抱きかかえる白衣の人間。
「あぁ、これは動物病院だな」
「どーぶつびょーいん?」
「動物が病気になったり怪我をしたときに、治してもらえるんだ」
「ふーん」
「まあ、おまえにはあんまり関係ないだろうけど」
ようこは曲がりなりにも犬神だ。他の生物を凌駕する自然治癒力を持っている。

画面の中では、獣医が注射器を取り出している。
「うわっ」
ようこが嫌そうな顔をする。注射器の針が気になるようだ。
手術台の上に載せられた子犬は、暴れないように四肢を固定されている。
近づけられる注射器。
その先端が、きゃんきゃんと泣きわめく子犬の腹部に刺さっていく。
「ひっ!」
慌てて啓太にすり寄るようこ。震える手で、啓太の肩にしがみつく。
「なっ、なっ、何してるの、あの人?」
「何って、ありゃ注射だ」
「い、痛そうよ?刺さってるよ?」
「まあ、針が刺さるんだから痛いわな。でも、あれで病気が治るんだ」
実際には麻酔注射のようだが、啓太は詳しい説明は省いた。
「わ、私には必要なさそうね」
精一杯胸を張って言うようこだが、体はガクガク震えている。
傍若無人で人知を超えた力を誇るこの犬神は、魑魅魍魎どもよりも、注射器の方が怖いらしい。
啓太には、その事実がなんだか可笑しい。 

麻酔が効いてきたのか、子犬はぐったりとしてきた。
キラリと光るメスをおもむろに取り出す獣医。
「きゃーーっ!!」
「お、おい、ようこ?」
「ケイタ、ケイタっ!テレビ消してっ!」
「わ、わかったからしがみつくなっ!」
啓太を押し倒さんばかりのようこ。テレビを消してほしいのなら、邪魔をするな。
啓太は両手両足をばたつかせながらも、なんとかテレビのリモコンを掴み、スイッチを消す。

「ほら、落ち着け、ようこ。あれは手術って言って、ああやって、体の中の悪い部分を切り取るんだ」
「ケイタ、ケイタ、だって……」
ようこは涙目で啓太にすり寄る。啓太の説明が耳に入っているかは怪しい。
落ち着かせようと、ようこの頭を優しくなでてやる。
「手術中は麻酔が効いてるから、体を切られても痛くないんだ。
 それに、手術が終わったら、切った部分は縫うから、切られたままってわけじゃない。
 あの人は、子犬の病気を治そうとしているだけなんだって」
「でも、でも」
「第一、おまえ、あんな小さな刃物、怖いわけないだろ?」
犬神であれば、刃物や銃器といった、人の凶器を恐れるとも思えない。
「そ、それは確かに、自分の体が自由に動かせるなら怖くないけど、
 あんな風に体を縛られて、自分の体を切り刻まれるのかと思ったら……」
ようこの顔色は血の気が引いて真っ青だ。心なし、体温も低い気がする。
体温が伝わるように、ようこの体を抱きしめ、あやすように背中をさすってやる。
「そうだな。怖かったな。ほら、今日はもう寝ような」
「……うん」
啓太はようこの手を引いてベッドに向かう。
涙を拭きながら、素直についてくるようこ。まるで物心ついた頃の幼い娘のよう。
この少女は、体と言動は一人前の女性だが、こういうところは完全に小さな子供だ。

二人で布団に潜り込む。
「手、つないでてね」
まだ涙で潤んだ瞳で、啓太をじっと見つめるようこ。
普段の彼女からは想像もできない。
「わかったから、もう寝ろ」
そう言って、ようこの頭を胸に抱え込むようにして、自分も目を閉じる啓太。
「うん、おやすみ、啓太」
「ああ、おやすみ」

・・・

ようこは夢を見ていた。
白衣を着た見知らぬ男性が立っている。マスクのせいで顔はよく見えない。
「ようこさん。あなたは病気です」
「えっ!なっ、なんの!?」
「手術が必要ですね」
「何言ってるのっ!わ、私は犬神よっ!しゅ、しゅじゅつなんて必要ないんだからっ!」
「聞き分けのない子ですね」
がちょん。いつの間にやら、手術台に載せられているようこ。
手足と胴体に、革のベルトが巻き付けられて、動けない。
「なっ、いらないっ!いらないんだからっ!」
「さあさあお注射ですよー」
白衣の男性は、さも嬉しそうに注射器を何本も取り出す。
「た、助けて、ケイタっ!」
「ケイタさん?そんな人はここにはいませんねぇ」
男性が、にやりとほくそ笑む。ゆがんだ口元に、恐怖を感じる。
「ケイタっ?ケイタっ!どこにいるの?ねぇっ!」
たくさんの注射器が近づいてくる。ようこの腕、首もと、お腹に刺さろうとしている。
「いーやーーっ!」 

叫び声と共に目が覚めた。まだまわりは暗い。
啓太の方を見る。少しもぞもぞした後、小さなあくびと共に、啓太の目が開いた。
寝言で叫んだので、起こしてしまったようだ。
「なんだ?怖い夢でも見たのか?」
「ケイタっ!ケイタっ!うわーん」
瞳いっぱいに涙をためたようこが、啓太にしがみついてくる。
よしよしと、頭をなでてやる啓太。
「あのねっ、えぐっ。あのねっ、ケイタ。しゅじゅつが。えぐっ。
 ケイタがいなくて、ちゅうしゃが、私に、ブスって……」
「そうかそうか。それは怖かったな」
「どうしてケイタいないのよっ!」
「そんなこと言われても、夢の中までは行けないだろ?」
「私、怖かったんだからねっ!」
「そっか。でも俺はちゃんとここにいるだろ?」
「……うん。よかった」
「安心した?」
「……した」
啓太の胸に顔を埋めて、啓太の匂いを嗅ぐように、すんすんと鼻をならすようこ。
啓太はようこの体を包むように、そっと抱き寄せる。
「……ねぇ、ケイタ」
彼女の口調は、だいぶ落ち着いたようだ。
「なんだ?」
「こんなふうに、抱きしめてくれるの、好き」
「いつもは抱きつこうとしたら、しゅくちで逃げるくせに」
「それはケイタがエッチだから」
「男はエッチな生き物なんだって」
「でも今はあんまりエッチじゃないよね」
「さっきまで注射器が怖くてビービー泣いてたお子様に、あまり欲情はできない」
「なっ、なによっ。いつもは私によくじょーするくせに」
「おまえは俺にエッチでいてほしいのか、いてほしくないのかどっちなんだ」
「私によくじょーはするんだけど、エッチなことは歯を食いしばって我慢してほしい」
「おまえはほんとに俺を困らせるのな」
「ごめんね?怒った?」
「まあ、どっちにしろ俺は我慢するしかないんだが」
「おわびね」
そう言って、ようこは顔を上げ、啓太の唇に、自分の唇を重ねる。
「で、俺は我慢するのか」
「キスは自由」
「そっか」
目を閉じて、顔を上げるようこ。今度は啓太の方からキスをする。
唇が離れると、またようこの方から。啓太の方から。何度も何度も、ついばむように。

啓太は相当に我慢しなければならないが、今日はそれもいいと思った。
なにせ注射が怖い子供なのだ。キスくらいで、ちょうどいい。
明日になれば、けろりとして、また俺を困らせるのだろうが、今は棚上げにしておいてやろう。
こうやってキスをするのも、悪くない。うん、悪くない。

二人、まどろんでいきながら、キスばかりを繰り返す。
いつの間にか眠ってしまうまで。 


4|06/04/25
最終更新:2007年07月13日 16:44